第180話「パパと娘」
中野区にある於駒神社が、
於駒神社は寛永年間に佐賀県の鍋島藩を襲った〈化け猫〉の子孫だと伝えられている、いわくつきの社であった。
藍色の父たちもそのことはほぼ事実だと確信しているらしく、藍色自身も疑ったことはない。
妖魅である〈化け猫〉と人の子孫がいて神社を継いでいるのかという点は、実のところ猫耳家にもわかってはいないが、彼らにとっては些細なことであった。
なぜなら、猫耳の家系は細かいことを気にしない、その名の通りに自由な猫のごとく飄々とした生き方を是とする一族だったからである。
その自由さはどの程度のものかという、妖怪の子孫でありながら、妖怪退治を生業とする退魔巫女を輩出するという矛盾についても深く考えたりはしなかったぐらいなのだ。
「―――とはいえ、実家の周りで妖怪が暴れ回っているという事態はとても困ったものにゃので……」
「藍色ならやれる。頑張りなさい」
「でもですね、パパぁ。わたしとしてはパパたちにも手伝ってもらいたいわけにゃんですよ」
「すぐになんでも親に頼ることはいけないと教えたはずだぞ。パパたちはこっそりと見守っているから、自分一人で頑張りなさい」
発言だけを聞いていると、娘には優しいがとても厳しい躾をする父親のように思える。
しかし、社務所の裏にある猫耳家の居住スペースの居間において、エアコンをがんがんに効かせながらテレビを観ている姿には何の感銘も覚えなかった。
しかも、神職らしからぬ内容の、プロボクシングの録画である。
自分でも小刻みに身体を動かしながら、選手の戦いに一喜一憂していた。
完全に娘の話など二の次だ。
藍色自身、冷たい空気の中で温いお茶を飲みながら、父と一緒に試合鑑賞しているのだから言えた義理ではなかったが。
「よし、今だ、押し込め!」
「あっちゃー、きついなあ、今のジョルト!」
「お、お、おおおおおお! ナイスパンチ!」
興奮して手が付けられなくなった父親を横目に二杯目のお茶を用意する。
ポットの中の熱いお湯を急須に入れて、長めに蒸らすと、濃い目に出たお茶を湯のみに半分だけ注ぐ。
残りの半分にはペットボトルのミネラルウォーターを追加して、適度に温いお茶にした。
猫舌の彼女のための手間である。
「―――おお、娘よ。私にも一杯くれないかな」
「嫌です。自分でやって」
「ケチな娘ですね。そこまで大きく育ててあげたのに」
「パパはわたしに猫耳流とボクシングを教えただけじゃにゃい。もっと宮司の仕事も真面目にやってくれにゃいと、わたしもママみたいに逃げるからね」
「逃げたとか言わないでくれ。ママはかれこれ一月ほど田舎から帰ってこないだけなのだから」
「二年ぶり五度目にゃんですけど」
「甲子園みたいですねえ」
(神職の身でありながらボクシング狂いの父親と、暇な時は神社の境内でトレーニングをしている娘だからにゃあ。ママも大変だ)
他人事のようであった。
「さて、試合も見終わったし、今後のことを話し合うとしますか」
父親がむくりと起き上がった。
彼は傍目にはただのオジサンであるが、こう見えても猫耳流交殺法という体術の使い手なのである。
動きの一つ一つに非常に隙が無い。
「にゃにを話あうの?」
「そりゃあ、おまえ、〈鎌鼬〉退治についてですよ。〈社務所〉に言われたんでしょ。我が於駒神社の縄張りで悪さをしでかす妖怪がいるとなれば奉職した以上、私も宮司として仕事をしなればならないでしょう」
「マジですかにゃ。パパが?」
「何を言っているやがるんですか、我が娘は。おまえが戦えるように〈護摩台〉を設置しないとならないでしょう。それは誰がやるのです? 助けが必要になるのではありませんか」
〈護摩台〉は特設の結界である。
閉じ込めた妖怪と巫女との能力値を平均化し、ほぼ互角の領域まで地均しする効果を有する。
ただし、欠点と呼べるものもある。
巫女にとっての秘儀ともいえる神通力を使用する術の使用や、一般には「
かつての退魔巫女と、現在、西で妖怪退治を司る僧侶たちは、妖魅と戦うために術と神具を併用して行っていた。
だが、それよりも一定のサイズの結界を張り、素手で戦うという原始的な手法に効果が出始めたのである。
ここから〈護摩台〉の使用がスタンダードになっていったのだった。
もっとも〈護摩台〉はその設置に人手が必要という欠点があり、ただでさえ人手不足の〈社務所〉では運用しづらいものであった。
父親の言う助けとはそういうことだ。
「そうですね。わたしだけではちょっと大変な力仕事ににゃりますから。ありがとうございます、パパ」
「でしょう。〈社務所〉から人を頼むのも面倒ですし」
「まあ、アテはあったのでそちらに頼むこともできましたが」
「アテ?」
「お友達の助手さんをお借りしようかと。バイト代をださにゃいとにゃりませんが」
「パパだったらタダでいいですよ。私って娘思いのパパだと思いませんか、経費節減は大事ですよ」
「―――ママがいにゃい分も食費が浮きますね」
藍色は経費削減をやたらと言われていたことを思い出した。
交通費をケチるほどだから、人件費なんかもっと無理かもしれない。
しばらくサボっていた間にどこも不景気になってしまったものである。
残っていたお茶を飲み干す。
猫舌からしても冷めてしまっていた。
「では、お願いします」
「パパに任せなさい。……あとでママのところに電話しておいてくれるともっと頑張れるんだけど」
「では、調査に行ってきます。八咫烏が来ているようですので」
庭先で聞き慣れたカラスの鳴き声がしていたのを、聞き逃す藍色ではなかった。
『オオ、巫女ヨ、久シブリデアルナ』
「はい、そうですね。では、出かけましょうか」
『丁度、昨晩ノコトダガ、一人ノ娘ガ〈鎌鼬〉ニ襲ワレテオル。話ヲ聞クノガイイダロウ』
「案内してくださいにゃ」
猫耳藍色は何かを言いたげな父親を置いて、さっさと庭に出た。
夏らしく陽が照っている。
この眩しい日差しのどこかに今日も異形のものどもが蠢いている。
そして、それに苦しめられる人々も。
退魔巫女として復帰したからには、助けを求める人々を救わなければならないのだ。
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