第60話「妖怪〈化け猫〉」
僕たちの国において、猫にまつわる怪異譚というのは、当初〈猫又〉と呼ばれる巨大な獣のことを指していた。
実際に人を襲ったりする巨大なヤマネコや狼の被害が〈猫又〉と一括りにされていたのだと言われている。
「徒然草」の八十九段において、『奥山に猫またといふものありて、人を食らふなる。」と、人の言ひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の経上がりて、猫またになりて、人とることはあなるものを。」と言ふ者ありける』と紹介されているものはこの類に含まれる。
現代のアメリカでもピューマによる被害が報告されているように、かつての日本ではこういうネコ科の動物が暴れ回る環境があったのだろう。
それを〈猫又〉によるものとしてまとめて、大衆にいつも気を付けるように警告していたのだと思われる。
だが、江戸時代に入ってから、〈猫又〉にまつわる伝承は一変する。
鶴屋南北などの劇作家が各地に残る妖猫譚を発掘し、それが演劇という形で世に紹介されだしたからだ。
特に、地方の大名のお家騒動として隠ぺいされていた事例、例えば「鍋島の猫騒動」「有馬の猫騒動」「岡崎の猫騒動」が明るみにでたことによって、世の中に〈化け猫〉という恐ろしい妖怪の存在が知られるようになったのである。
「……〈化け猫〉の特徴はね、人、中でも女性に化けるということだ。女性の持つ身体のしなやかなラインが猫のそれに酷似しているからだと思うけど、基本的に男に化けたという事例は少ない」
「うん、ネコミミをつけていいのは女の子ばかりだしね」
「……? まあ、可愛い子供や僧侶に化けることもあるみたいだけど、どちらも衆道の対象となりやすいということから、やはりなよっとした女性的なところがあるからともいえるだろう」
「劇団四季のキャッツだとただの北斗○拳のひゃっはーっぽいかな」
「次に、〈化け猫〉は人間の血や精気を吸い、また死体を好んで食し、操って暴れるともいわれていて、〈火車〉という妖怪の正体だと云われている地方もあるようだね」
猫というのは、かなり古い時期から人の家で飼われるようになっているというのに、そのちょっと気まぐれな行動からある意味で不思議な存在だったのだろう。
だから、その不可思議な部分を妖怪になぞらえられていたのかもしれない。
もっとも、今回の事件からして、妖怪変化としての〈化け猫〉がいたことも否定はできないけれど。
「あと、猫は祟る。自分を殺したものだけでなく、猫の主人などを殺したものにも祟るので、例えば〈化け猫〉を退治したらあとで塚を作って念入りに祀る必要があるんだ。……今回の退治が終わったら、ボクたちも供養塚を作っておく必要があるね」
「へえ」
御子内さんによる〈化け猫〉のレクチャーはわりと長い間続けられた。
彼女自身、〈化け猫〉と戦うのは初めてだというのにやけに詳しいなと思っていたら、
「レイがね、重度の猫好きでよく猫カフェなんかに連れていかれたんだよ」
「―――レイさんが?」
「そうだよ。あんな巴御前みたいな厳格そうな顔をして、猫を抱いてニヤニヤしているのは気持ち悪いったらありゃしなかったね。ついでに〈化け猫〉の伝承にも詳しいもんだから、よくボクらに講義していたもんさ。発表会のときのネタは確か「鍋島の猫騒動」だったかな? あの話が好きらしくて、いつか自分の猫を飼った時に、「こま」と名付けるんだと息巻いていた。同期に関係者がいたこともあってなんだか気持ち悪いぐらいにはしゃいでいた」
レイというのは、明王殿レイという御子内さんの同期の退魔巫女のことだ。
〈神腕〉という神通力のこもった両腕をメインに戦い、僕の知っている限りでは御子内さんを一番苦しめたライバルである。
ただ、あの凛とした顔で猫好きなのか。
しかも、鍋島の猫騒動にでてくる「こま」って日本でも一二を争うぐらいに有名な〈化け猫〉だよね。
悪趣味にも程がある。
「猫好きって業が深いね」
「うん。そういえば音子がレイの猫好きの話をしているときに、自分のツイッターのプロフィール画面に猫を使っている人は地雷率が高いといっていた。意味はよくわからないけど」
「御子内さん、それ偏見だから」
というか、もしかしてレイさんってツイッターをやっているのか。
しかもプロフ画像を猫にして。
うーん、退魔巫女も業が深い職業だなあ。
「まあ、鍋島の猫騒動が〈化け猫〉のステロタイプといえるだろうね。飼い主の非業の死にあたりその血を舐めて変化となる、行灯の油を舐める、女性に化ける、復讐のために暴れ回る等々……」
「今回の事件もその要素はあるかな」
「そうだ」
僕は、和田が〈化け猫〉に襲われたときの内容を思い出していた。
◇◆◇
まず、和田は同居していた唯一の家族である母親の異常に気がついた。
どこがおかしかったかというと、普段は彼に話しかけても来ないのに、頻繁に声をかけてくるようになったからだ。
それだけで普通の家族の在り方としては首をかしげざるを得ないが、和田のような男にとっては疑問に思う余地のないことであった。
母親が異常であると考えた和田は、自室の戸に鍵を掛ける。
すると、夜な夜な戸のノブをガチャガチャ捻る音がし始めた。
室内に侵入しようとしているのだ。
恐ろしくなって、戸の板に耳をつけて様子を窺ってみると、母親のものらしいのに、母親とは思えない皺枯れた声で、
『こっちの戸は駄目か。では、あっちの窓だ』
と独白しているのが聞こえた。
意味がよくわからなかったが、たまたま振り向いた時、窓が開けっ放しなのに気がついた。
常時、戸を閉めたままにしているため、換気のために開けておいたのだ。
はたと思い立ち、和田は窓も閉めて鍵を掛け、カーテンをひいた。
しばらくして、今度は窓枠がギシギシと音をたてて鳴り始める。
誰かが外から窓に手を掛けているのだ。
二階の窓に対して。
さすがの和田もぞっとした。
最初は戸、次は窓。
誰かが彼の部屋に押し入ろうとしている。
何のために。
理由はわからないが、そうしようとしているのは疑いない。
布団に潜り込むとすべてから耳を塞いで丸くなった。
少なくとも朝までは我慢しよう。
今、耐えきれずに外に出たら終わりだ。
そんな予感がする。
次の日、陽が出てから和田は荷物と趣味の道具をアタッシュケースに詰め込むと、何も言わずに家を出た。
もともと母親に自分から声をかけたりはしない男だったが、今回に限ってはあえて無視した。
何故か。
簡単な話だ。
昨晩、彼を恐怖のどん底に叩き落したのはどう考えても彼の母親だからだ。
たいして運動神経もなさそうなのに、二階の窓にどうやって手を掛けたのかはわからないが、彼女の仕業以外にはありえない。
これ以上、家に留まってはいられない。
だから、和田は家を飛び出した。
行く当てがあるわけではない。
和田には友達と呼べるものは皆無だからだ。
しかたなく近所の神社の境内で、コンビニのパンを食べていたとき、頭上でカラスが一羽、鳴いていた。
そのカラスは八咫烏と呼ばれ、退魔巫女の使いとして妖怪に襲われているものを助ける使命を帯びた使い魔であった……。
◇◆◇
「それで発覚したということなの?」
「ああ。〈社務所〉の禰宜の一人が和田家を調べに行って、彼の母親がどこにもいないことを確認した。それだけではなくて、家全体に妖気が漂っていることと、家を訪れた近所の人が台所で箸も使わずに何かをがつがつと食べている母親の姿を目撃していたことも聞き取ってきた。そこで、〈化け猫〉の仕業だと判断されたんだ」
それで御子内さんが呼ばれたという訳か。
調査はすでに終わっていたということだね。
ただ、話がそこで終わっていることが気になった。
今の内容では、「どうして和田が狙われているのか」がはっきりしない。
確かにうちの妹のように妖怪にたまたま狙われたという場合もある(今回の〈化け猫〉は僕の家にやってきた〈高女〉と似たようなパターンだし。これはよくある成り行きみたい)。
だが、和田の母親をどうにかしてから、その姿に化けるということは、よほどのことだ。
しかも、〈化け猫〉の特質を考えると……。
「―――御子内さん、あのさあ……」
と、振り向いた時、リングの傍で興味深そうに色々と触っていた和田のところへ彼女は駆け出していた。
何があったのかと見ると、和田の頭上にある木の枝に蠢く黒い影があった。
それが物凄い勢いで落下してくる。
あのままでは和田に当たると思われた瞬間、居合切りのような御子内さんの飛び蹴りが迎撃した。
『ギャアアア!!』
見事に黒い胴体を捕捉した踵が反対方向に蹴り飛ばした。
地面に落ちて何回転かしてから、その影は四足で起き上がった。
黒い、黒い、毛皮をした、巨大な猫であった。
あれだけ大きいと異形としか言えない。
尻尾を除いてもニメートル近い大きさで、ほとんど虎のようにも見える。
尖った鋭い歯が並んだ口から、白い煙と共に青白く光る炎を吐いていることもあり、まるで魔獣であった。
僕の知る猫の範疇に含まれるものとは思えない。
『ジャマをするかミコめ!!』
〈化け猫〉は憎々しげに怒鳴った。
その眼には恨みの念が溢れている。
ただし、吊り上がった眦が見据えているのは御子内さんではなく、和田だった。
あの〈化け猫〉が和田をつけ狙っていたのは疑いのないところだ。
「それがボクの仕事さ」
御子内或子は一切の怯えもなく、巨大な〈化け猫〉と対峙していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます