ー第15試合 猫耳藍色ー

第101話「神速のサウスポー」



 その少女の拳闘ボクシングは、まるで舞踏ダンシングだった。


 小刻みなリズムを刻むフットワーク、軽やかに揺れて的を絞らせないウェービング、機械のように精確なコンビネーション……。

 そして、何よりも伸びきった左ストレートの美しい形は、まさにサウスポーの目指すべき夢そのもの。

 普段は酒をかっ食らいながら、罵声を飛ばし、札束を握りしめて、拳闘ボクシングという競技を冒涜してやまない下劣な男たちが眼を眇めながら見惚れてしまうほどだった。

 相手をしているのは、元女子プロレス出身の大柄な二十代の選手である。

 ボクシングというよりも、力任せに腕を振り回しているだけにしか見えない低い技術しかないが、その一発一発に込められた破壊力パワーは外野にも想像がつく。

 なにしろ、上半身と下半身の筋肉がまるで鋼鉄のようなのだ。

 プロテインとステロイドを使ってようやく作れるかもしれない、そんな危うさしか感じ取れないほどの筋肉の塊。

 だが、いみじくも古典的な戦いの言葉にあるように、当たらなければどうということはない、のだ。

 元プロレスラーの再三にわたるテレフォンなパンチを、夢の少女はことごとく躱していく。

 そもそも、最初に音を出してから今までにゴングは三回ほど鳴り響いていたが、その期間に一度でも触れさせたこともない。

 すべて軽妙なフットワークと身についた回避技術で避け切っているのだ。

 時折、右ジャブが放たれるが、その度に元プロレスラーは突進しようとする出鼻をくじかれ、起死回生の無理矢理なラッシュに持ち込むこともできない。

 攻撃をすることなく、神業的なディフェンスのみで試合を進めるというのは、ある意味では臆病者チキンのやることだと言われかねないのに、少女に対しては誰も文句を言おうとしない。

 それが彼女の戦い方であると同時に、奇跡的なまでのボクシング技術の精髄をことが観客を喜ばせるのだ。


「ふん!!」


 元プロレスラーの必死のハンマーパンチが空を切った。

 少女が顔を少し下げたことで目標を喪失したためだ。

 空振りは肉体的疲労を早める。

 無意味なことだからだ。

 そして、がら空きになったボディに一撃が入った。

 左の抉り取るようなボディブローだった。


「げふっ!!」


 息を吐いた直後のボディ攻撃は肺が広がっているので、腹筋が緩み、ダメージがさらに倍増する。

 いかに堅い筋肉の壁を誇っていても内臓の非随意筋までは鍛えられない。

 怯んだ直後に、少女の右がくいっとわずかに上を向いて撃ち抜く。

 元プロレスラーの顎にわずかにかすった。

 

 しかし、観客たちはその一瞬を見逃さなかった。

 ボクシングを知るものならば誰でも知っている顎先への攻撃の結果を。

 よたよたと大柄な女の足元が頼りなく揺れる。

 倒れそうになった自分をなんとか踏ん張ろうとしているのだが、顎先に受けた一撃によって梃子の原理で揺れた脳がそれをさせてくれないのだ。

 古来、ボクシングをするものにとって顎は何よりも致命的な急所である。

 ゆえにそこを守りきるために、様々なガードとディフェンスが編み出された。

 元プロレスラーとてそれはわかっていたのだが、あんなに容易く撃ち抜かれるとは思ってもいなかったのだ。

 それでもなんとか持ちこたえようとした瞬間、サウスポーの少女が飛び出した。

 これまでの消極性をかなぐり捨てるテレポートのような前進フロントステップを見せて、右肘が引かれ、腰が螺旋を描き、視線はそのまま、左肩が平行線を過たず移動し、スナイパーの放つ弾丸のように一直線に伸びて、左ストレートが爆発する。

 この試合で少女が放った、本気のパンチはこれ一つといえた。

 だが、放てば決まるのが必殺ブロー。

 ギャラクティカ・ファントムめいた派手さはないが、抜き打ちの刀のような切れ味鋭いパンチであった。

 観客席で唾を飲んで戦いの行方を見守っていたむくつけき男たちの歓声が鳴り響いた。

 顔面に左ストレートを受けた元プロレスラーが膝から崩れ落ちたからだ。

 ここ最近では、ほとんど見られない一発KOシーンが起きたのだ。

 レフェリーが止めに入ることもない、この裏の賭けボクシングでもひどく珍しい光景だったが、この少女の試合ではよくあることだった。

 男たちは力の限り叫んだ。

 飲んでいた酒のことさえも忘れるほど。

 またも、彼らのアイドルが見事な勝利をつかみとったのだ。

 しかも、元プロレスラーとのウェイト差は七階級以上あるだろう。

 一階級あがるだけでパンチ力の差が激増するというボクシングにおいて、そんな無差別級の戦いが存在することはまずない。

 それが見られるだけでも希少な体験だというのに、プロでも少なくなったKOまで見られるなんて……。

 熱狂の渦は止まらず拡大し続けた。

 この小さな倉庫跡に作られた薄汚く暗い照明のついたリングでの奇跡としては最大限のものを見られて男たちは満足しきっていた。


 さすがは俺らのチャンピオン!

 やっぱりあんたは最強の女子ボクサーだ!

 愛してるぜ、俺たちの巫女ボクサー!


 リング上からは試合を終えた少女がタオルを被ったまま、軽く手を挙げて観客の声に応えていた。

 彼女の動きと技はまさに洗練されたボクサーそのものであったが、その格好はというとあまりにもボクシングとはかけ離れていた。

 上半身には両袖のない白い木綿の着物、首元には下に着ている襦袢の赤い襟がある。下半身は膝の上あたりで断ち切られてはいるが、同色の紐で結わえられた緋色の袴を履いていた。

 足元こそボクサー用のリングシューズであったが、それ以外は巫女のコスプレそのものの異装である。

 数か月前、彼女が初めてリングに上がった時、すべての観客は彼女を口汚く罵った。

 もともとこの非合法の賭けボクシングにおいて、女子の試合は赤裸々なド派手なランジェリーをつけて、色気たっぷりの女性たちが戯れるだけのショーでしかなかったのに、露出の少ない巫女装束なんてものを着ていたからだ。

 しかも、相手もいかにも本物の色気のない女子ボクサー。

 真面目に観ること、まして金を賭けるなんてこともしたくなくなる詰まらなそうな試合だった。

 ―――のはずだった。

 だが、その試合において、巫女装束の少女の圧倒的なまでのボクシング・テクに魅せられた男たちは、それ以来彼女のことをアイドルとして崇拝に近い感情を抱き続けることになる。

 ボクシングを観る事よりも、賭けの結果だけにしか興味が湧かなくなっていた元々の拳闘ファンの魂をがっちりと掴んだ、美しい本物のリアル・ボックス。

 もう一つ、ややおかしな点もないことはないが、それを無視してでもファンを魅了するにはまったくの問題がなかった。


 ……そして、いつしか観客は彼女のことを〈巫女ボクサー〉と呼んでいた。



       ◇◆◇



「彼女が、御子内さんのお友達?」

「うん。退魔巫女の道場で一緒に修業した同期だよ」

「……えっと、レスラーじゃないんだ……」

「ん? ああ、あいつはボクの同期でも珍しく、退魔の方法にボクシングを選んだ変わり者なんだよ。なんでもお父さんの影響だと言っていたけど」


 へー。

 ただでさえ、妖怪退治にプロレス技を使う変な人たちだと思っていたのに、中にはああいうさらに変わり種もいるのかあ。

 ……なんというか御子内さんと知り合って以来、僕の人生観は多大な修正を迫られてきたが、今回のことでまたさらなる変化を求められそうだった。

 なんといっても今度はボクサーが登場したからである。

 あえて言うなら彼女は〈巫女ボクサー〉かな。

 さっきから歓声を上げ続ける賭けボクシングの観客たちも、「巫女ボクサー、愛してる、ラララ~♪」なんてチャントを歌い続けているし。

 

「巫女ボクサーなんて俗な名だ。ボクだったらB.B.バーニングブラッドとか名付けるところだよ」

「―――うん。捻りが効いていていいかもしれないね」


 こういう時にあまりツッコんでもいいことはあまりない。

 ぶっちゃけ御子内さんのセンスもたいして最新じゃないから。


「でも、退魔巫女がこんなアンダーグラウンドの世界で賭けボクシングに出ているっていうのは、どんなものなの? 妖怪退治以外に色々してはいけないイメージがあったんだけど……」

「確かに表向きは禁止されているよ。こういうのは巫女の道に外れるからね。まあ、理由があればそんなに目くじらをたてられたりはしないんだ」

「理由って?」

「―――さあ、それは藍色あいろに直接聞かないとわからないね。ただ、あいつはホントに真面目な堅物だから曲がったことではないと思う」


 御子内さんは、あの巫女ボクサーについて相当の信頼を抱いているらしい。

 音子さんたちに対するよりやや堅い印象があるけれど、言葉の端々にそういう強い想いが感じられる。

 要するに、親しくはないけれど同じ仕事に就く同僚としては抜群に信頼できる、とかそんなところだろう。

 まあ、レスラーとボクサーだから水と油かもしれないね。


「さて、会いにいくとするか」


 御子内さんはスカートを翻して、倉庫の裏手にある参加選手の控室に向けて歩き出した。

 こんな酒臭い胡散臭い賭博会場を女子高生が制服姿で歩くというのはとても違和感がある。

 こういう場所だと聞いていたので、ややくたびれた背広を着て、髪型をオールバックにまでした僕の苦労は報われそうもない。

 途中で主催者のスタッフらしいどうみてもチンピラみたいな連中とすれ違っても、御子内さんは気にもしないで進んでいく。

 おかげで奇異なものを見る目を向けられはしても、咎められることもなく控室まで辿り着いた。


「こういう時はね、堂々としておくのさ。むしろ怪しすぎるぐらいの方がいいぐらいだよ」

「そんなものなの?」

「ボクなんていつも巫女服だけど職質されたこともないぐらいだ。常に堂々と生きているとそれは警察にも伝わるもんだね」

「……」


 きっと違うと思う。


「おーい、藍色あいろー。ボクだよ、或子だ。入るよ」


 選手控室という看板のついた部屋の前で、御子内さんが声を上げた。

 しばらくすると、中からドアが開いた。


「……或子さん?」


 先ほどまでリングで激戦を繰り広げていた女の子が眼をぱちくりしながら顔を出した。

 シャワーを浴びていたのか、髪が濡れている。

 ただ、水で濡れているせいで彼女の外見における際立った特徴がさらに顕わになっていた。

 

 ぴょこん、ぴょこん


 綺麗に揃えられたショートカットで、いかにもボーイッシュな美少女なのだが、その頭には二つの特徴的な盛り上がりがついていた。

 人工的に造られたアクセサリーではなく、はっきりとした癖っ毛なのだ。

 だが、どう見ても僕にはその膨らみは、動物の耳にしか思えなかった。

 なんだろう……

 えっと……

 ネコミミ?


「久しぶりだね、猫耳ねこがみ藍色あいろ。―――まだ、色々と悩んでいるのかい?」

「―――或子さんにゃないですか。どうして、こんなところに」

「勿論、キミを迎えに来たのさ。いい加減、退魔巫女としての仕事に戻ってもいい頃だからね」

「……はにゃ?」


 彼女の名前は、猫耳ねこがみ藍色あいろ

 ネコミミと美しすぎる拳闘技術を備えた退魔巫女。

 ……不撓不屈の闘志を持った努力と根性の巫女ボクサーである。



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