第382話「アンシーリー・コート」
升麻京一がでていったことに相原千夏子は気が付かなかった。
彼女の神経は、ゆったりとしたソファーでぐったりと横たわる少女の方に集中していたからだ。
細かい顔色の変化や発汗量などに注意する。
豊ノ橋凜花に憑りついた妖精がいつ覚醒するかを警戒していたからだ。
「〈
この凜花とほぼ同い年のとき、千夏子はロンドンの屋敷で〈赤帽子〉に襲われたことがある。
そのときの妖精は、伝承の通りの小人の姿であったが、恐ろしく凶暴で執念深く、かつ、色欲と強欲に塗れた化け物だった。
あの時に受けた恐怖は欠片も忘れたことがない。
自分で初めて見た人外の存在である妖精というだけでなく、現代の切り裂きジャックという噂がたつほどに多くの人間を殺害して回っていたのが〈赤帽子〉だったからだ。
あることが切っ掛けでこの邪妖精に狙われた千夏子と友人は、慣れた自分の家の中で執拗に狙われたことで死にかけたのである。
〈赤帽子〉―――は、邪恵なゴブリンの一種である。
ゴブリンとは妖精族のうちでは泥棒や悪党にカテゴライズされる、浅黒く小型で、鉱夫たちにとっては鉱脈を示してくれる親切な『ノッカー』と呼ばれていることでも知られている種族であった。
決して善に属するものではなく、むしろ敵対する悪の方が強い存在だが、そのくせにどこかでお調子ものな印象が強い。
悪いこともしでかすが、基本的におっちょこちょいで失敗ばかりを繰り返す憎めない小鬼。
嫌われてはいるけれど、必ずしも排斥の対象にはならない悪戯もの。
伝えられている多くのお伽噺でも彼らはそういう扱いを受けるのが通常であった。
だが、〈赤帽子〉と呼ばれる種族は、
主として城や砦の廃虚に住みつき、特に忌まわしい地域、過去において不穏な事件の発生した呪われた土地を好み、そこで凄惨な殺戮の宴を繰り広げる。
人々が忌み嫌うのも当然の怪物たちなのだ。
そして、一見ユーモラスとも思える名前の由来もまことに忌まわしい。
彼らは手にした手斧で、たまたま通りがかった人間の首を両断して、その内臓をひきずりだすと戦利品とでも呼べる相手の血潮を染料のように使って、上質な生地と一級な針仕事で拵えられた大きな帽子を染め上げるのだ。
しばらくして血が乾き色褪せると、また運悪く通りすがった人々を見つけては惨殺して、新しい鮮血で染め直す。
故に赤帽子―――〈レッド・キャップ〉なのであった。
邪妖精の中の邪妖精。
御子内或子も、かつて聞いたことのある名前だった。
悪戯好きな妖精などという範疇を軽く逸脱した、悪鬼羅刹の邪鬼について。
視線を眠り続ける凜花の手元に落とす。
その女の子らしい手には、どす黒い汚れが染みついた手斧が握りしめられていた。
少なくとも少女が手にするものではない。
漂う死の臭い噎せそうなほど、その手斧は不気味な存在感を放っていた。
着ている服は緑だというのに、赤い帽子とこの手斧。
さすがに千夏子の言うことを全面的に信じざるを得ない。
そもそも、 関東随一の退魔機関である〈社務所〉に八咫烏を通さずに連絡を取り、数多いる退魔巫女の中でも最強を自負する自分が派遣されるのだ。
或子が知らないだけで、相当オカルトなどを含む澱の世界で信頼されている人物なのだろう。
先ほどからのテキパキとした魔除けの護符の配置や、様々な薬効のあるドライ植物の飾りつけなどの動きに淀みがない。
(普段から意識して妖精対策をしているということみたいだ。いや、違うか。もうすでに何度もこういう脅威に接したことがある動きだ。……思っていた以上に、この
そうなると、さすがの或子にも気になることができた。
「―――キミはどうやら妖精対策については、わが国ではトップに含まれる人材みたいだけど、どうして今回に限ってはボクたちに繋ぎを取ったんだい?」
「ただの妖精事件だったら、わたしでもなんとかできるわ。妖精の嫌う薬剤や植物、護符もたんと仕入れてあるから。そんなに多くはないけれど、日本でも妖精に纏わる事件は起きているの。そういうときにアドバイザーとして招かれたりすることはあるわ。〈社務所〉のことを知ったのは、そういう事件に関わったときのことね」
「なるほど。かくいうボクも〈砂男〉とぶつかったことがある」
「……ドイツの〈砂男〉かしら?」
「出身はイギリスっぽかったけど」
「だとすると、ディオゲネス・クラブのコッペリウスのことね。数代昔の当主が妖精の〈砂男〉のシーリー・コートと婚姻したという伝承があったけど、まだ力の継承が続いているとは驚きだわ」
或子は驚いた。
〈砂男〉については部外秘となっているはずだ。
それだから、千夏子の推理は既存の知識頼りのはずなのに、はっきりとコッペリウスの名前まで出してきたからだ。
(なるほど、妖精研究家。伊達ではないということだね)
ただ気になることがあった。
「〈砂男〉のシーリー・コートと婚姻したって、どういうことだい?」
「簡単よ。妖精と人間の血統が混じる場合というのは、人間に妖精が憑りついていたときにだいたいが限られるから。日本や世界でいう妖魅との混血というのは、妖精に限るとあまり見当たらないの。そもそも、妖精自体アストラル体の幽界の存在であって、実体と呼べるものがないし」
「幽霊、でもないのかな?」
「そうね。あえて言うなら、精神思念体かしら。
「……なるほど」
「だから、はっきりと写真に写ることもあるの。コティングリー妖精事件のようにね」
或子にしてみれば、なんとも奇怪な話だ。
今まで習ってきた常識がやや覆されるようでもあった。
「……その女の子が、〈赤帽子〉のシーリー・コートになったから、キミはそこまで警戒しているのかな」
「アンシーリー・コートね。その通りよ。シーリー・コートの場合は、人間が妖精の力を手に入れるパターンが多いけれど、アンシーリー・コートの場合は妖精が人の肉体を奪ったと考えた方がいいの。そうなると、正直、手に負えなくなるわ。普通、妖精の力を御せる人間はそうはいないから、遅かれ早かれアンシーリー・コートになってしまうとも言われているけれど」
凜花が妖精に憑りつかれた理由はわかっていない。
彼女の誕生日に合わせて、アイルランドから帰ってきた商社の営業マンである父親が、居間で倒れている娘を発見し、同時にその異常な変身に気が付いたのだ。
父親の声を聞いて、一度だけ意識を取り戻した凜花が、
「よ、妖精があたしの中に……」
という言葉を発したことで事態を把握したのである。
凜花の父親は、出張先のアイルランドで何度か不可思議な体験をしていた経験から、娘の状態が妖精によるものだと推理した。
まともな常識的判断からすると、それはあり得ない発想であった。
だが、異国で幾度となく怪奇と向き合ってきた腕利きビジネスマンはその突飛な発想を大胆にも受け入れた。
そして、かねてからアイルランドの工芸品について詳しく、さらに妖精研究の泰斗である千夏子に連絡を取ったのだ。
娘にふりかかった災厄をなんとかするために。
「……
「なんなんだい?」
「妖精の一部を釘で貼り付けることで、家内安全を祈願する呪術よ。クローゼットというのは珍しいけれど。普通はベッドか特別製の金庫みたいなものを使用するから」
「ふーん、妖精の力をねえ」
「まあ、通常は妖精を模した人形なんかで代用するものだけど、おそらく問題のクローゼットに使われていたものは本物だったのでしょうね。しかも、妖精の中でも最凶に近い種族の……」
つまりは〈赤帽子〉のものか。
いったい、どうしてそんなものがクローゼットに貼り付けられ、凜花に憑りついたのか、細かい事情はわからない。
だが、千夏子はすぐにでも対処しなければ最悪の事態に発展すると見当をつけた。
かつて〈赤帽子〉に襲われた彼女だからこそ言える。
アンシーリー・コートと化した〈赤帽子〉が産まれてしまったとしたら、それは眼に映るものを皆殺しにせずにはいられないような悪魔そのものになると。
「なるほど。わかったよ。凜花が目覚める前に、なんとかして封印できるようにしよう」
と、或子が言った瞬間、ぐったりとしていたはずの凜花の手斧を持った腕が上がり、横に振るわれた。
その延長線上にあった窓ガラスがすべて吹き飛ぶほどの烈風を伴って。
凜花の眼が開く。
妖魅のもの特有の黄色いトパーズの輝きと共に。
『ここはどこだ!?』
邪妖精〈赤帽子〉の第一声は、十代の少女の声を奪って放たれたものであった……
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