第604話「猫耳流交殺法〈鯰牙〉」
トラックの影から一匹の昇り竜のように大きな口を開いた〈ノヅチ〉の姿は、まるで巨大な鰐のようであった。
影鰐、とでもいうべきか。
とてもツチノコの正体とは思えない、大きく裂けた口を持つ、鮫とも鰐ともつかない化け物だった。
ただ言えるのはその胴体は完全に影の中に消えていて、別のものとは思えないという一点だ。
太く短くではなく、細く長い印象の方が強い。
トラックの運転手さんを狙ったのもかなり素早かった。
僕が木っ端を投げるという選択肢を選ばなければ、運転手さんは間違いなく食い殺されていただろう。
しかし、さっき於駒神社で聞いていたのとは、かなり様相が異なる。
さらに凶悪度が増したというか、妖怪から怪獣に変化したというか、二年間の間にまったく形が変わってしまったかのように見える。
それとも、あれが本性なのだろうか。
影に潜む妖怪―――〈ノヅチ〉の。
「しゃ!!」
〈ノヅチ〉目掛けて、藍色さんの左ストレートが伸びる。
通常のアプローチではない方法を選択してしまったのも、過去に舐めた辛酸ゆえかも。
だが、藍色さんの左拳は妖怪の胴体に掠りもしなかった。
〈ノヅチ〉は再び影の中に消えていったからだ。
雨後ににょきにょきと生えたタケノコが地面に逆回転の画面を見るようにシュルシュルと戻っていく光景はシュールであった。
タケノコ魔人タケノッコーンとでもいうべきだろうか。
しかし、その危険度はいくら冗談で誤魔化したとしても変わらない。
状況を理解した僕はそのままトラックの傍から離れた。
ついさっきまで僕の影がトラックのものと同化していたということに気がついたからだ。
最悪の場合、僕の影にいつのまにか、あいつが移動している可能性だって……
「あったみたい!!」
僕は自分の影の胸の部分が泡立つようにぶくぶくと膨れ上がったのを見た。
かつて一度たりとも拝んだことのない異状。
それが指し示す答えは一つだ。
「藍色さん!!」
「はい!!」
自分の影から大口をあげて飛びかかってきた〈ノヅチ〉をのけぞってなんとか躱すと、即座にターンした藍色さんのブローが妖怪の胴体を抉った。
今度は命中。
巫女ボクサーの会心のフックの一撃が〈ノヅチ〉の長いボディを吹き飛ばす。
とはいえ、相手は蛇身の妖怪。
サンドバックをぶちのめすようなもので、確実に仕留められる一撃にはなっていない。
とはいえ、一撃が入ったのも事実。
藍色さんのラッシュが〈ノヅチ〉に襲い掛かる。
「にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ!!!!」
ラッシュのときのお約束といってもいい掛け声とともに、ノンブレスの藍色さんの両手の連撃が始まった。
見た目からして骨もなさそうなミミズのような〈ノヅチ〉が息もつかせぬ連打によって怯む。
藍色さんのパンチの全てに〈気〉がこめられているのならば、一撃が軽くてもそのトータルのダメージはオーバーキルになりかねない。
だが、それだけの打撃を受けても〈ノヅチ〉にはたいしたダメージは与えられなかったらしい。
『きしゃあああ!!』
牙を剥いて藍色さんに反撃をする。
すっとスウェーバックで躱したが、さすがに息切れをしていた。
さっきのラッシュである程度のダメージを与えられると踏んでいたのだろう。
だが、敵は常識外れの耐久力をもっていたようだ。
まだ倒しきれない。
僕は彼女の邪魔にならないように退こうとしたのだが、
「だめにゃ!!」
と止められる。
あたりまえだ、
今、僕の影の中に〈ノヅチ〉は潜んでいるのだから。
しかし、その時、僕たちは誤っていた。
そのとき、すでに妖怪は僕のものから藍色さんの影に移っていたのだ。
一度、影の中に戻った妖怪が再び現れたのは、藍色さんの股座の下であった。
ボクサーである彼女には蹴りという技がない。
彼女のもう一輪の技である猫耳流交殺法も手業中心の体術だ。
そのため、真下から狙ってくる敵に対しての効果的な反撃手段がない。
強引に手を十字にして下に向けて、〈ノヅチ〉の牙を受けると、後方へと跳んだ。
さすがは化け猫の子孫。
とんでもない脚力で窮地に一生を得る。
もっともとんだ先にも彼女の影はある。
そこに先回りしているのではなく、そもそも当然の結果として〈ノヅチ〉は待ち構えていた。
影はずっと藍色さんのものであり、その影に潜む妖魅もずっと離れないのだから。
「ちぃっ!!」
藍色さんは執拗に下方から狙ってくる〈ノヅチ〉の牙を捌きながら、難しい対処をずっと強いられていた。
ボクサーはこのような戦いを想定していない。
かつて御子内さんが執ったアリキック作戦でもそうだが、立ち技での戦いのみを想定しているボクシングにとってこのような変則的な敵は苦手以外のなにものでもないはずだ。
二年前に藍色さんが敗北した原因もそこにある。
影から影に移動するということは、常に下からの攻撃が中心になるということ。
ボクサーにとって相性が悪いとしかいいようがない。
しかも―――
「てえい!!」
渾身のパンチは躱されたら、敵は地面の影に逃げ込んでしまい、追撃の手段すらない。
これではまともに戦いを組み立てることもできないのだ。
計算されつくした美技ボクシングを操る藍色さんにとって、まさに天敵。
それが〈ノヅチ〉だった。
(まずい。〈護摩台〉の上に誘い出せないとなると、藍色さんの状況はまさにジリ貧のままだ。本当に相性が悪過ぎるぞ)
かといって、僕が〈護摩台〉を設置している暇をくれるはずはない。
僕程度でもわかるのだが、明らかに〈ノヅチ〉は狂暴化していると思う。
あたりまえだ。
あいつは藍色さんのことを思い出したに違いないのだから。
藍色さんが二年前のトラウマに囚われていたと同様に、二年もの間休眠状態にあった妖怪も彼女との戦いが苦い記憶となっていないはずがない。
なぜなら―――
「でえい!!」
のけ反りつつ、まるでハリウッドのある映画のようにブリッジを築きながら、藍色さんの逆アッパーが〈ノヅチ〉の口中に叩き込まれる。
ボキボキと牙の折れる音がした。
藍色さんのグローブが妖怪の武器を根こそぎ破壊したものだった。
体勢は必ずしもよくない。
だが、彼女は巫女ボクサー。
パンチの技術だけは誰にも負けない。
あの御子内さんとも引き分けた最強のボクシング使いなのだから。
ガン
ただし、あまりにアクロバティックな動きを連発しすぎたせいで、藍色さんは搬入用のトラックにまで追い詰められてしまう。
つまりは、彼女の影とトラックのそれが同化する。
「藍色さん、奴は移動したぞ!!」
「わかってますにゃ!!」
またも敵は影を渡ったに違いない。
やはりあの移動手段を完全に断たないと倒しきることはできない。
影の中に潜む敵とはこれほど厄介なものだとは。
せめて、〈護摩台〉の結界で封じて居られれば……
しかし、藍色さんはチェシャ猫のごとくニヤニヤと笑った。
らしくない、笑いだった。
彼女の名前にある猫の名には相応しいけれども。
「……〈影渡り〉というらしいですね。その能力」
妖怪や神以外では絶対にできないだろう異常な能力だった。
まともな退魔師ではきっと正面切って戦うことすらできないだろう。
ここまで凌ぎきった藍色さんもまた凄いのだ。
ただ、あのニヤニヤ笑いを浮かべられるところがまた彼女は凄い。
挑発しているのである。
妖怪を。
〈ノヅチ〉を。
人の身でありながら。
「きっと、わたし以外ではあにゃたには勝てにゃかったでしょう。震動を消し去る音子さんでも難しい。あにゃたに勝てるのはわたしだけだったのだから」
藍色さんはいつもの構えをやめて、両手をクロスさせた。
あれはボクシングのものではない。
たぶん、あれは―――猫耳流交殺法。
「あにゃたの敗因は一つ。あのとき、わたしを逃がしてしまったこと。ただそれだけ」
そして、ボクサーらしくなくベタ足になる。
フットワークを捨てたのだ。
「次の一撃があにゃたを斃す。わたしの猫耳流交殺法〈鯰牙〉が」
そうして、彼女は踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます