第183話「リングに駆けろ」
担当になっていた看護師に見送られ、病院から退院することになった摩耶は、入口に停めてあったワンボックスのワゴンに乗せられた。
すでに夜の七時を過ぎていて、外は暗くなっていた。
入院してから一歩も外出していなかった摩耶にとって、外に出るということに少なくない恐怖があった。
自分が妖怪(一度でも体験してしまえば絵空事と笑い飛ばすことはできない)に襲われて大怪我を負ったという事実が、彼女の脚をすくませるのだ。
例えば襲った相手が人間の通り魔であったとしても、受けてしまった恐怖というものは簡単に拭いきれるものではない。
しかも、顔の傷はまだ激しく疼いている。
また狙われるのではないかという恐ろしさが一歩ごとに脳裏をかすめるのだ。
だが、隣を歩く巫女装束のクラスメートがいてくれるおかげで、なんとか停車しているワゴンにまで辿り着けた。
運転手を勤めるのは、宮司の格好をした中年の男性だった。
端正で真面目そうな顔つきの四十がらみで、いかにも宮司という神職に相応しい品がある。
どことなく面影に見覚えがあると思っていたら、
「藍色。おまえは後ろでこの子に付き添ってあげなさい」
「はい、パパあ」
この二人、親子だったのか。
しかも、「な」を「にゃ」と言ってしまう滑舌の悪さの他は、基本的に至極真面目で堅物っぽい印象の猫耳藍色が父親のことをパパと呼ぶなんて……
実のところ、摩耶はそのショックでしばらく妖怪の恐怖を忘れていたほど驚いたものである。
三人が乗り込むとすぐにワゴンは走り出した。
「―――随分と遅くなってしまってすみませんね。娘が妖怪退治できるように、結界を張る重労働をしていたものでして。いやあ、疲れた疲れた。久しぶりだから肩が凝ってしまったよ。明日辺りに筋肉痛かな」
「結局、どこに〈護摩台〉を立てたの、パパ?」
「うちの境内だよ。中野だし、この子の家とも割合近いところにある。別のところを借りるよりは慣れた環境の方がいいだろ」
「でも、日野さんを連れ出したとして、退魔巫女の奉職する神社にまでやってくるものかにゃ?」
「さあ。ただし、今回の〈鎌鼬〉の連中が新宿に潜んでいるのは疑いがなさそうだ。ほら、これを見てみなさい」
手渡されたのは青いファイルだった。
その中に印刷された書類が挟み込まれている。
書類には、「2015年1月26日15時ごろのこと、ネット上で驚くべき内容の投稿が拡散された。その投稿の内容は、東京都・JR新宿駅において通り魔事件が発生したというものである。しかし、この事件はテレビなどでは一切報じられておらず、ネット上ではさまざまな情報が錯綜したようである」とあった。
当時のツイッターなどの書き込みが挙げられ、さらにJR東日本のコメントとして「新宿駅で通り魔事件があったとは確認されておりません。また、現在のところ運行状況に特に異常はありません」との返答が載せられていた。
実際に新宿を通過する電車には遅延・運休は起きていなかった。
そして、この事件の詳細はその後も明らかになっていないと最後は締めくくられていた。
「この記事―――もしかして」
「ああ。〈鎌鼬〉の仕業だろうね。新宿駅の昼間に派手に暴れ回ったんだよ」
「でも、パパあ。事件は確認されていにゃいとあるけれど」
「〈鎌鼬〉の仕業というのならば、切り裂かれたとしても傷口は治っているだろう。例の傷薬を使ってね。傷口という具体的な証拠がなければ、事件性なんて確認されないものだとパパは思うよ」
「―――にゃるほど、ネットに投稿した人は、実際は切り裂かれた被害者を見ていた。でも、次の瞬間には治っているものだからただのデマをばらまいただけという結果に終わったという訳だね」
「多分ね。それは、今年の一月の出来事だから、おそらく新宿に住む〈鎌鼬〉たちはその頃から暴れ回っていたんだ」
新宿といえば藍色にとっては地元に等しい場所だ。
そこでこんな事件があったということに気づかなかったというのは、退魔巫女として不行き届きというところだが、当時の藍色はまだ例の失意のどん底から立ち直れていない時期であった。
仕方のないところではある。
もっとも、そんな風に自分を慰めて楽になろうとする少女ではなかった。
自分さえしっかりしていれば、隣にいる摩耶にいらない苦しみを味わわせることはなかったのだから。
「―――サボっていたことの贖罪もしておけということかにゃ」
自分が、表の世界に引っ込んでいる間に妖魅による人への攻撃が、幾度となく行われていた。
そのこともあって、統括のこぶしがこの事件の解決を藍色に命じたのだろうと彼女は悟った。
〈鎌鼬〉による事件は、薬によって傷口が塞がっているという特性により表に出ることが少ない。
今回の摩耶のケースのように、八咫烏のような第三者の介入で「転ぶ、斬る、治す」の過程が邪魔されない限り被害者は騒ぎもしないだろう。
したとしても、証拠がないので誰も信じてくれないからだ。
しかし、いつか最悪の状況が発生するかもしれないのは確かだ。
摩耶の傷と、これまで〈社務所〉に報告されていた関連の報告を見る限り、人を無差別に襲い出した〈鎌鼬〉は遠くない未来には「死の旋風」に成り果てる。
高速道路などで時折起きるバイクのライダーの首の切断事故などは〈鎌鼬〉の仕業がほとんどだという。
その鋭い鎌が人でごった返した都会で起きたらどんな惨劇が引き起こされることか。
そうなってからでは遅すぎる。
摩耶の包帯に包まれた顔を見る。
ようやく顔を思い出した。
クラスの行事などのときには陰での仕事を積極的に引き受け、スクールカーストなんかに囚われない人懐っこさをもつ女の子だった。
すぐに思い出せにゃくてごめんなさい。
藍色は彼女の手を優しく握った。
「―――日野さん。いいかにゃ」
「え、何?」
「私を信じて欲しい。……一度、ダメににゃった私だけど、ようやく帰ってこれた。だから、信じて欲しい」
真摯な言葉に摩耶が答えようとしたとき―――
ガタン!
とワゴンの屋根の上に何かが落ちてきた。
鈍い金属板が凹む音もする。
ただ一度の衝撃で天井の板が外れかけていた。
「パパあ!!」
「屋根の上に何かが降ってきた! 藍色、摩耶ちゃんを守りなさい!」
「はい!」
藍色は手を掴んだまま、摩耶を引き寄せ、抱きとめた。
そのまま座席に押し倒すと、覆いかぶさるようにして彼女を庇う。
きっ、と車の天井を睨みつける。
確かに父親の言う通り、屋根の上に何かがいる。
走行中の車の上に飛び乗るようなものが。
早稲田通りに入った直後の出来事であった。
まだ、多くの人間が歩き回っている時間だというのに。
そんなことをやってくるものの心当たりは、藍色には一つしかない。
ガンガンガンと屋根を蹴りつける音がした。
屋根ごと貫かれるおそれはなさそうだったが、壁越しに見えない何かに脅されるという経験は肝が冷えるものがある。
さすがの藍色も脅威を感じていた。
「車を停めて!」
「ダメだ! 振り落とす!」
父親は対向車がいるにも関わらず右にハンドルを切り、狭い路地にワゴンを飛びこませた。
急激なGをかけて、屋根上のものを振り落とすつもりであった。
車内で二人の少女は右側によって強く抱きしめ合うことになる。
藍色のたいして豊かではない胸に抱きしめられて摩耶は顔を赤らめた。
誰かの胸に顔を埋めるなど初めての体験であったからであった。
しかも、その相手は憧れていたボーイッシュ美少女。
そのケがなくても赤面してしまうとうものだ。
一方の藍色は、そんな彼女の恥じらいなど気づきもせずに、上だけを凝視している。
黒い線が天井に走った。
すべてを切り裂く刃の仕業だと、藍色の観察眼が見抜いた。
鋼鉄製とまではいかないがそれほど脆くもない屋根を容易く斬ってきたのだ。
すでに襲撃者の正体ははっきりしている。
こんな芸当ができる敵で、今、彼女たちを狙っているものは一つだ。
〈鎌鼬〉。
そいつらが移動中の彼女たちを見つけて追ってきたのだ。
可能ならば撃退したい。
だが、藍色の得意とする拳撃では屋根の上にいる妖怪に触れることさえできない。
怪物がすぐそばで蠢いているというのに、何もできないとは……
「パパあ!!」
「我慢してくれ! 運転しているパパの方が危ないんだから!! そっちに注意を引きつけて!!」
「もう!」
藍色は下からアッパーを天井にぶつけた。
効かないのはわかっている。
ただし、それで少しでも注意を引ければという行動だった。
ビクンと恐ろしい殺気がした瞬間、拳を引く。
ついさっきまで腕を伸ばしていた空間を光線が走った。
隙間から突っ込まれた刃の跡であった。
背中に冷たい汗が落ちる。
下手をしていたら腕を落とされていたところだ。
この狭い車内ではこれ以上、好き放題にやられたら何もできずに殺されるかもしれない。
凶暴な妖怪であるというのならばなおさらだ。
「猫耳さん……」
「大丈夫。もうすぐうちにつくから」
於駒神社まで戻れば、〈護摩台〉がある。
すべての退魔巫女のためにあつらえられた最強の舞台が。
「二人ともこらえなさい!!」
「何を!!」
「境内に入る!!」
「ちょっ、マっ―――!!」
「対ショック防御おおおおおお!!」
「パパあああああああ!!」
ガクンと大きな衝撃が車内に伝わる。
通りから住居にしている社務所に入るのではなく、境内に入る場合はたった五段だが石段を登るのが於駒神社の造りである。
〈護摩台〉を設置した境内に入るということは、すなわちワゴンでそのまま石段を上るということなのだ。
つまり、車内に伝わるのは障害物にぶつかる並みのショックであった。
身体がはじけ飛ぶように何度も宙に舞い、座席に叩き付けられる。
それが五回も続いたとき、さすがの藍色も眼がクラクラしていた。
猫並みの三半規管を持っている彼女でもこの遊園地のアトラクション以上の揺れはきつすぎた。
だが、石段という障害を無事に突破したタイヤとサスペンションが境内に敷き詰められた砂利の存在を伝えてくれば彼女はもう甦る。
そこには〈護摩台〉がある。
退魔巫女としての彼女を守る結界が。
後部座席を空ける。
自動ドアが完全に開ききる前に、摩耶を抱きしめたまま飛び出す。
地面に落ちる寸前に身体を捻って着地すると、そのまま躊躇いもせずに駆け出す。
相手は風に乗る妖怪。
迅さは折り紙付き。
だから、出足が何よりも重要だった。
藍色と摩耶の背中に風が当たった。
何かが追いついてきたのはわかっている。
だが、すぐそこに一見リングのような戦いの舞台がある。
死を賭けた徒競走の勝者は―――
「でやああああああ!!」
摩耶を抱いたまま、藍色は悪魔の蝙蝠のように跳んだ。
飛び込んだ先は、白いマットが敷かれたリングの上であった。
バチンと四本のロープのうちの一本がぶち切られた音がした。
藍色はなんとかリングにまで逃げ込められたのだ。
リングサイドにはさっきまで彼女たちを狙っていた妖怪たちが集まっていた。
伝承通りの三匹の〈鎌鼬〉。
冷たい目で人間たちを見つめている。
だが、もう素直に藍色たちを襲おうとはしない。
自分たちが足を踏み込んだ場所が結界に守られているということに、ようやく気が付いたのだ。
「知恵がありそうに見えて、所詮はイタチだにゃ」
摩耶を背中に庇うと、藍色は妖怪たちをリングから見下ろした。
「リングに上がってきにゃさい。猫耳藍色に勝てるという夢を見れるのにゃらね」
呑気な招き猫のようだが、ここにいるのは敵と戦うために産まれた生粋の闘猫なのであった……。
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