第582話「ルーザードッグでも吠える」



〈イゴールナク〉。


 それがどんな邪神なのか、完全なる分析をしたものはいない。

 人を堕落させ、罪を犯させ、悪に染め上げることだけが目的の邪神として認知されているだけである。

 鉄心でさえ、その本当の姿は知らない。

 だが、一つだけ確実に言えることがある。


「他人を悪の沼に落とそうとするもののことなど口にすることさえ無意味であろう」


 と。

 そう、人が人でありたいのならば悪に対して抵抗しなければならない。

 悪はどこにでもいる。

 自分の中にもいる。

 決して切り離せない人間の本能の一つだ。

 しかし―――


「悪に対して抗うのもまた人の特性よ」


 だから、豈馬鉄心はこの悪に彩られ爛れた邪神に挑むのだ。


「うおおおおおおお!!」


 鉄心の丸太の様な太い蹴りが〈イゴールナク〉の胴体を薙いだ。

 サイズ差としてみると二倍はある邪神の巨体が揺らぐ。

〈冥王の神託館〉の床をバウンドして転がっていく邪神を追撃し、さらにサッカーボールキックで追い打ちをかけた。

 その足首は口のついた掌で受け止められる。

 ちかっと痛みが走る。

 瞬時に外したが、鉄心の足首は綺麗に割れて血が噴き出していた。

 鋭利な刃物で切り付けられたように。

〈イゴールナク〉の牙によって斬られたあとであった。

 ニンゲンの皮膚など容易く切り裂く邪神の牙が振るわれたのだ。

 要するに、〈イゴールナク〉によって受けられた攻撃に対してはあの掌の口による咬みつきという反撃が待っているということだ。

 丸太による突きを受け止められたように。

 それが生身の鉄心の躰であった場合、致命傷は避けられないかもしれない。

 不用意な打撃は逆に危険である。


「とはいえ、わしには丸太とこの手足以外に武器はないのでな」


 格闘技としての相撲を使うのが鉄心の戦闘バトルスタイルである以上、肉体的接触は避けられないのだから当然の理屈であった。

 もっとも、そのことを悔やむことはしない。

 ただ、蹴り。

 ただ、つっぱり。

 ただ、ぶちかます。

 それが原始の日本で育まれた日本人のための“武”―――相撲である。

 放った張り手はかすかな痛みを伴って〈イゴールナク〉の胴体にぶつかった。

 小指がぷらぷらとしていた。

 インパクトの瞬間に掌の口に小指の付け根を噛みきられたのだ。

 しかし、〈気〉の力で強引に神経を繋ぎ、もう一度張り手をかます。

 相撲取りの突っ張りは芸のない力だけの技である。

 ボクシングのように緻密な理論に基づいた技術ではない。

 もっとも、そんなものは必要ないのだ。

 なぜなら、相撲は神事から発生したものだからである。

 神への祈りが“武”の形へと昇華しているものなのだから、小賢しい理屈などなにもいらない。

 力の限り、神聖なる闘いをすればいいだけなのだ!


「どすこおおおおおおおい!!」


 この有名な掛け声の語源は、「そうはさせない」という相手を押しとどめる言葉であったという。

 相手が自分と同じ、いやそれ以上の力士であったとしても敗北することなど認めず、そうはさせじと気を吐く闘士の誇りが放つ言葉が「どすこい」である。

〈イゴールナク〉やそれに連なる邪神どもの好きにさせて、人間たちの世界を蹂躙させてなるものかと鉄心は叫ぶ。

 指の数本、腕の一本など喪おうと構うものか。

 わしの一撃は蹂躙させてはならぬものたちのためのものだ。

 そのためには貴様ら、高次元の存在の好き勝手を許すわけにはいかぬ。


「でりゃあああ!!」


 幼馴染の少女と同様に叫び、小指がちぎれそうになりながら〈イゴールナク〉を打ちすえる。

 二倍の体格差のある邪神の胴体がぶれる。

 その腹に目掛けて、膝蹴りを突きさす。

 サイズ差を無視したダメージが与えられた。

 さすがの邪神も声にならない呻き声をあげる。

 続いて掌の口から悲鳴が上がった。

 顔のない怪物はふらつきながらも妖力を発した。

 悪意が靄となり噴出する。

 受けた瞬間、細胞という細胞が腐り果てる様な倦怠感に襲われたが、鉄心は無視してさらなる追撃を行う。

〈イゴールナク〉の手首を掴み、籠手返しで引っ繰り返させる。

 合気道の小技であるが、かつて神宮女音子と学んだ由緒ある技であった。

 だらしなく転がった邪神の腹に踵を突き立てる。

 不動明王の像に踏みつけられる餓鬼を思わせた。

 それもあたりまえである。

 今の鉄心は邪鬼を踏みつける軍神でもあった。

 この邪神を決して許してはならぬ。

 石埼という老人の敵討ちでもあり、外で操られている島民を救うためにもここで討たねばならぬ敵でもあるからだ。


「おぬしが島民を煽動しているのだろう。〈グラーキ〉が〈ゾンビー〉を操っていたように、おぬしは民草をあのような形で暴徒に仕立て上げ、〈ラーン・テゴス〉を仕留めようとしていたのだ。だが、そんな暴挙にして愚挙はわしが許さぬ。ここで貴様を仕留めて、あやつらを解放せねば巫女の名が廃るでな」


 手を合わせて渾身の一撃を叩きつけた。

〈イゴールナク〉の腹が窪む。

 ヒトであるのならば内臓全てが破裂してもおかしくない一撃であった。

 だが、邪神は邪神。

 そんなことで滅びることはおろか、死ぬことはない。


『ぎぁやあああ!!』


 穢れた赤ん坊のような悲鳴をあげて、邪神は再びを発した。

 颶風のように叩き付けられた悪意が鉄心を吹き飛ばした。


「なんと!!」


 肉体にダメージはなかった。

 しかし、今の悪意によって鉄心の精神に狂いが生じる。

 秘めていたコンプレックスが露呈したのだ。


(或子か……)


 彼女が決して勝てないと幼き頃に憧れた少女への憧憬が嫉妬へと塗り替えられる。

 御子内或子への、妬みと嫉みが鉄心の精神を黒く塗りつぶす。

 もし、この場に彼女がいたらそれは絶対の意志となって鉄心を逆心にみちた裏切りへと駆り立てたであろう。

 だが、ここに或子はいない。

 幼馴染は外で人類の命運をかけて戦っている。

 こんな裏方にはやってこない。

 そして、裏方であったとしても、陽の目を浴びない戦いであったとしても。


「わしは豈馬鉄心である!!」


 現在の自分を蔑むわけにはいかないのだ。

 それは積み重ねてきた人生を虚仮にすることに等しい。

 勝負に負けることはあってもいい。

 だが、舐められて虚仮にされることは許してはならないのだ。

 そんなものは女の沽券にかかわる。


「弱いわしに負けることだけは、わしが許さん!!」


 鉄心は吠えた。

 例え、弱き負け犬でも吠える権利だけは捨てられぬ!!



 


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