第277話「妖怪〈ぬらりひょん〉」



 男の身で痴漢されるハメになるなんて、情けなくって涙が出そうだが、とりあえず僕の尻を揉んでいる野郎の顔を覗き見る。

 だが、そこには出勤途中のサラリーマンたちが押し合いへし合いしているだけで、怪しい人物はいない。

 いかにも痴漢という人物が痴漢だったということはよくあることだが、まったく不審な人物がいないというのは妙な話だ。

 そっと自分の尻の方を見たが、スカートに触れているものはいない。

 だというのに、撫でられる不快な感触だけはある。

 僕の尊厳を御貸している奴は確かにいるのだ。


(これが〈ぬらりひょん〉か……)


 さすがは他人の家に入り込んでも気がつかれないほど存在感が皆無なうえ、認識をずらすことができる妖怪。

 物理的に透明になれるグリフィン家の人たちとはまた違う、隠形法である。

 正直、こいつがもっと凶悪な悪事に手を染めたら、普通では対処できない気がした。

 かといって痴漢なんていう軽犯罪をされても困るんだけど……

 股の間に手を突っ込まれるのだけは避けたいので、腿をぎゅっとしめる。

 カバンを持っている手は放せないし、左手は吊り輪を掴んでいるので使えない。

 参った。

 少なくとも〈ぬらりひょん〉が姿を見せないうちは、てんちゃんからの指示もこなせない。

 こちらの認識では〈ぬらりひょん〉は痴漢行為に没頭し始めたらすぐに姿を現すはずだったのに、意外とスケベ心が湧きたつのが遅いのか、未だ消えたままだ。

 このまま、しばらくの間、我慢するしかないのかな。

 と思っていたら、尻のあたりの不快な感触が消えた。

 はて、と横を向くと、ロバートさんが悔しそうに下唇をかみしめていた。

 さっきまでとは様子が明らかに異なる。

 どうやらあっちに移ったらしい。

 なるほど、自分から罠にかかってきた間抜けな美少女が二人いるのなら、どちらも堪能したいということですか。

 スケベ野郎め。


「いや……」


 小声で拒絶するロバートさん。

 今までとは違う顔の赤らめ方で、必死に屈辱に耐えているようだ。

 しかし、そこまで女子じょしらなくてもいいでしょう。

 気の強そうな外人の女の子が羞恥で目を伏せ、眉を八の字にするのはかなり色っぽいものがある。


「Don’t touch……」


 声まで女の子っぽくはできないので、男っぽい低音だがこの声量なら気づかれないはずだ。

 くい、とロバートさんが背中をのけぞらせた。

 よく見るとブレザーの胸のあたりが凹んでいる。

 なんと、〈ぬらりひょん〉は胸まで手を出し始めたのである。

 痴漢ってそこまでするものなのか!

 背後から手を突き出して、女性の胸までもみしだく下劣な妖怪の姿はまだ見えない。

 だが、ロバートさんが取り乱さずに頑張っているところは非常に熱いものがある。

 頑張れ。

 耐えるんだ。

 他人事のように応援していたら、ひょいと左手を掴まれた。

 手首を見ると、しわがれた老人斑のある手に掴まれている。

 その先は……まだ見えない。

 明らかに〈ぬらりひょん〉のもので、ようやく姿を現し始めたのだろう。

 もう少し好きにさせればきっともっとはっきりとしてくる。


 ぺろ


 怖気が! 怖気が! 怖気が!!

 首筋を舐められたーーーー!!

 あまりのことに気が狂いそうになる。

 他人の舌でうなじを舐められるなんてとてもではないが耐えられない。

 しかも相手は妖怪だ。

 御子内さんや音子さんではないのだ。

 鳥肌が全身に立つ。

 ぶるぶるぶると身体が熱病にかかったように震え出す。

 さらにこの野郎は僕のスカートの裾をめくり、なんと手を差しこんできた。

 ざけんな!

 てめえ、ここまでやるのか!

 変態め!

 心の中で一斉に罵倒していたが、まだ駄目だ。

〈ぬらりひょん〉は顕現していない。

 温かい乙女の聖域ともいえるスカートの中をまさぐりだした手が太ももをすりすりと摩る。

 くそ、ナンタルチア、サンタルチア。

 ぜってえ、殺す!

 百万回生まれ変わってもぜってー殺す!

 そして、その手がさらに奥に突き進んだ時……


『おかしいのお……?』


 しゃがれた声がした。

 思わず振り向く。

 僕の肩のところに、禿げ頭で後頭部が異常に突き出た、まるでタコのような不気味な老人の顔があった。

 背後から無抵抗な僕の肢体カラダを抱きしめる格好で弄んでいたのは、この老人だった。

 着ている服はこんな満員電車には相応しくない和装。

 左手がスカートの中に差しこまれているのでもう言い逃れはできない。


「出てきたな!!」


 僕はカバンの中に入れておいた、手錠そっくりの木製の枷をその手首に絡みつかせた。

 カチンと厳かな音がして、手枷が〈ぬらりひょん〉を拘束する。


『なんじゃあ! これは!?』

「このスケベ妖怪! 地獄に落ちやがれ!」

『その声、まさか、貴様、男か!?』

「うるせえや!!」


 こっちの理性も限界なんだよ

 僕が〈ぬらりひょん〉を捕まえたとき、最強戦の電車が止まった。


〔池袋~ 池袋~〕


 池袋駅に到着したことで駅員のアナウンスが鳴り響く。

 多くの人たちがやはり降車しようと動き出す。

 ほとんどの人は僕たちの暗闘には気がついていない。

 僕はこの機会を待っていたのだ。


「降ります! あと、キリキリとついてきやがれ、この変態め!!」

『なんとおお!!』


 僕は手枷ごと強引に〈ぬらりひょん〉を引っ張り出し、力任せに池袋駅に降り立った。

 通勤通学時なので混雑が凄いこともあり、僕のおかしな行動はとても目立っていたがそんなの知ったことか。

 僕は日本全国の痴漢被害にあった女性の声を代弁して怒りに燃えていたからだ。

 この変態妖怪に引導を渡すと。


「こいつが……〈ぬらりひょん〉か……」


 一緒に降りてきた外国人美少女が溜めに溜めたマグマを放出せんばかりに、引きずり出されて座り込んだ〈ぬらりひょん〉を睨みつける。

 僕同様相当の怒りを覚えているに違いない。


『なぜ、儂が見えるのだ!!』


〈ぬらりひょん〉が喚くが、そんなのは簡単だ。

 妖怪の手につけた手枷は〈社務所〉の特製の品で、拘束した妖怪の力を四散霧消させることができるものである。

 そんなに長い間力を保てるわけではないようだけど、今、この場を凌ぎきるには十分だろう。

 少なくとも、そいつをつけている限り、特性を発揮して逃げることはできない。

 そして、僕らもおまえを逃がす気は毛頭ない。


「観念しろ! 〈ぬらりひょん〉!!」


 だけど、どんなに下劣で最悪でも妖怪の端くれだった。

〈ぬらりひょん〉はにやりと嫌らしく笑うと何か奇怪な行動を取り始めた……

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