第486話「欧州から来た貴族」



 はっきりとはわからなかったが、屋内から悲鳴のようなものが聞こえたと思い、ガサ入れを行っていた所轄の警察官たちは咄嗟に身構えた。

 警察官を邪魔したり、襲ったりすることはいかにヤクザでもまずはないことだが、もともと血の気の多いゴロツキの集まりだ。

 血迷って手を出すということもあり得ない訳ではない。

 所轄のバンにダンボールを詰めていた警察官たちの注意は完全に組事務所の中に向けられた。


「何かあったのか!!」


 外の指揮を執っていた巡査部長が玄関から中に怒鳴った。

 悲鳴は応接間からではなく、別の方向からしたような気がした。

 その目の前を遮るように甚平姿の組員が立った。

 邪魔をする気のように思えた。


「邪魔だ、ヤー公!!」


 緊急事態として強引に押しのけようとした巡査部長の手を組員が捕まえた。

 ガリガリに痩せて骨だらけになった男だった。

 なのにガッチリと掴まれて引き離せない。


「やめろ!! 公務執行妨害で逮捕するぞ!!」


 だが、ヤクザは離さない。

 それどころか物凄い力をもって巡査部長の大きな身体を事務所内に引きずり込む。

 むくな抵抗もできずに室内に連れ込まれた。


「なにしやが……」


 怒鳴り散らそうとしたその喉に熱いものが迸る。

 噛みつかれたのだ、と巡査部長が意識したのはほんの一瞬だった。

 彼の喉笛は完全に裂かれ、そのままついでのように命の糸も断ち切られた。

 巡査部長にとって最後に見たものはどうでもいいヤクザの組事務所にかかった裸電球であった。

 しかし、まだ彼はマシな方であったのかもしれない。

 人通りがあるかもしれない路上を避けて、庭で事情聴取をしていた警察官はいきなりその相手に抱き付かれ、もがいているうちに別のヤクザに足を引っ張られて乱暴に室内に引きずられていた。

 直後に左右から現われたヤクザたちに腹の筋肉を引き裂かれ、そのまま内臓を撒き散らして死んでいった。

 バンの運転手も同様に、運転席から無理矢理に引きずりおろされると、理解もできない数秒の間に空いていた後部シートに連れ込まれて全身に噛みつかれて痛みのあまりにショック死した。

 ガサ入れに参加していた十人の警察官が、ただの一人も残さず、悉く皆殺しにされたのは時間にしてわずか数分。

 松任谷が地下に降り立ってからでさえ、五分と経っていない間の出来事である。

 自らが手を下した惨殺死体が他人に見つからぬように、事務所に運び込むのにすら時間はほとんど要せず、近くの住民の誰も夕暮れ時の惨劇には気が付かないという有様であった。

 しばらくして、地下室の階段を下った東堂は、扉を開けて土の撒かれた室内に現われると、両膝で跪いた。

 額を土に深々と埋め、


「ご主人様。……あなたさまの寝所を穢した愚かで間抜けなおまわりどもは皆片づけましたぞ」


 忘徳のヤクザものとは思えぬ恭しい敬虔な口調であった。

 その言葉を向けられる相手は、中央にある黒い箱の上に足を組みながら座っていた。

 傲然とした仕草は不遜であった。


『……すべて殺したというのか、このバカが』

「ご主人様の寝所を穢したのですから当然の報いです」

『こっちにこい』

「はははあ」


 膝をついたまま、まるで忠犬が飼い主に媚びるように近づく東堂。

 その狂気に魅せられたような顔を、忠誠を捧げられた相手は躊躇うことなく打った。


 べちゃ


 熟れたトマトが弾き飛ぶような音をたてて東堂の地下室の壁にへばりつく。

 考える部品を喪った胴体は、糸の切れた操り人形以下の無様さで倒れていった。


『知恵の回らぬ狭量な猿め……!!』


 東堂が戸を閉めたためにまったく光源のない地下室の中にあっても、さらに暗黒のような存在感を放つ男であった。

 闇の中でさえ目立つ淡い肌が印象的だった。

 東堂を罵ったらしい口調には日本人のものとは違う訛りが見られた。


『昼だろうと夜であろうと誰も近寄らない、一種のアンタッチャブルな場所だと聞いて〈巣〉に選んだというのに、東洋の猿のクズは役に立たん!!』


 男は立ち上がる。

 さっきまで寝床にしていた“柩”から離れ、口元を拭った。

 赤い鮮血がこびりついていた。

 土の上には、この男の食欲によって全身の体液を吸い尽くされた松任谷と残りの二人の遺骸が転がっていた。

 完全に干からびたミイラのごとき状態であった。

 辛うじて延髄のあたりの皮で繋がっているような見るも無残な有様だった。


『……ジャパンには我らを狙うハンターはいないと聞いていたが、まともに寝る場所すら見つけるのに苦労するとは―――』


 男はしばらくぶりに落ち着ける根倉として見つけたヤクザの組事務所がたった一週間も保たなかったことに失望していた。

 自分の国を数だけ増やして馴染もうともしない移民によって追われなければ、今でも彼は体質にあった欧州の先進国で惰眠を貪っていられたはずだった。

 挙句の果てに、こんな極東の田舎に逃げ出さねばならないとは……

 しかも、最近の彼が口にした食料は知恵の足りない愚鈍な男か、そいつらの情婦か、クスリまみれの売女ばかりだった。

 やはり誇り高い貴族の舌には蛮族のものは馴染まない。


『私の体内時計ではもう夜になるか。……とにかくこんなところには長居できんな。柩はヤクザどもに運ばせるとして、別の宿を探すとするか』


 彼は―――貴族だった。

 そのあたりのどうでもいい場所で安眠はできない。

 なんとか故郷から持ち出せたただ一つの棺桶がなければ、まともに夢すら見ることができないのだ。

 幸い、この事務所にいたチンピラ、ゴロツキの類いはすべて彼の手下か虜になっていた。

 あとで場所さえ告げれば、どこにいたとしても下僕として馳せ参じることだろう。

 それが貴族の特権だ。


『まったく、この国の湿った臭いにだけはいつまでも慣れることはないだろうな』


 とりあえず、次の宿を見つける手立てを見つけようと、貴族は応接間に入った。

 他の場所と違い、煌々と灯りがついていた。

 そして、彼の愛してもいない下僕どもがことごとく床を這っていた。

 しかも、すべて頭と両掌が長い釘のような細長い金属に貫かれて、昆虫の標本のように縫い止められていた。


 オオオオオオオ

 ゴシュジンサマアアアアア


 怨嗟の声が床から漏れあがる。

 まるで地獄が現出したかのようであった。

 だが、貴族はそんなゴミの不始末など気にもしない。

 彼の眼に留まるほどの価値のあるものではないからだ。

 しかし、その貴族が決して目を逸らせないものがいた。


「やは、自分で起きてきたようダネ。私としてもわざわざあなたの寝床に行く愚は侵したくなくてネ。なんといっても、故郷の土で眠る〈吸血鬼〉の底力は桁外れだというじゃなイカ。とてもじゃないがやりあいたくはないヨ」


 見た目はこの国の神道の巫女のものだ。

 日本人の女らしく黒々とした髪が腰のあたりまである。

 眉のところでばっさりと直線に切った、日本人形にようであったが、その褐色に近い肌に裏切られている。

 しかし、この地獄を見て一切動揺する気配を見せないというだけでまともな人間ではないことは確かであった。


『……ハンターか?』


 だが、日本の巫女は肩をすくめて否定した。


「違うヨ。私は、欧州であなた方の同類を狩っている酔狂な連中とは違う。まあ、我が神州にあなたのようなタイプの妖魅はあまりいないから必死に狩り立てる気にもならないのかもしれないがネ。……まあ、私らは例外ではあるけれど」


 いつもは東堂が座っているソファーでのけ反るように座った巫女は名乗った。


「私はこの国の〈社務所〉の媛巫女―――神撫音かんなねララ。あなたのような外来種の妖魅を撃ち滅ぼすのを任務としている女ダヨ」


 貴族―――〈吸血鬼〉は、この国を陰から守護するものたちと初めて遭遇したのである。

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