第190話「サクラの謎」



 会社帰りだった林洋介は、自分のアパートの階段の前で声をかけられた。


「おじさん、おうちに帰るの?」


 まだ三十になったばかりとはいえ、後ろに立っていた小さな子供からすれば、林も十分に大人にみえるだろう。

 声をかけてきた女の子はどう見ても幼稚園児ぐらいにしかみえない。

 赤いワンピースを着ていて、にこっと笑っていた。

 陽が落ちていないとはいえ、時間的にはもう六時を過ぎている。

 このぐらいの年齢の子供が一人で歩き回っていていい時間ではない。


「ああ、そうだよ」

「お仕事の帰り?」

「まあね。君もさっさとお帰り」

「おうちに帰るんだ。じゃあ、サクラも連れて行って」

「えっ?」


 この幼女は何を言っているんだ。

 林は自分の耳を疑った。


「なんだって?」

「サクラをおうちに連れてってよ」

「―――おいおい」


 こんな小さな子を家に連れ込んだりしたら、今どき、どんな目に合わされるかわかったものではない。

 事案だ、とかいって。

 つい最近では普通に挨拶をしている子供に、挨拶を返しただけで通報された事例もあるらしい。

 また、迷子の子供を保護しただけでも誘拐犯の汚名を着せられた主婦の話もある。

 つまり、知らない子供とは無闇に会話するだけでも危険なのだ。

 そうであるのならば、家に連れ込んだりしたら、もうどういうことになるか想像がつくというものだ。 


「すまないけど、君を家に挙げることはできないよ」

「どうして?」

「……どうしてと言われても……」


 林は幼女趣味があるわけではない。

 だから、小さな子供を性の対象としてみたことなど、これまでの生涯で一度たりともない。

 この機に乗じてイタズラしてやろうとかいうよこしまな考えもなかった。

 サクラと名乗る幼女を連れて帰る気はまったくない。

 どうしてと理由を聞かれてもどうにもならないのが事実だ。

 うまい言い訳を思いつかなかったので、適当に言葉を濁して答えた。


「おれは君の友達じゃないからだな。友達でもないやつを家に上げることはしないんだ」


 自分的にはナイスな発言と思ったが、サクラはぷぅと頬を膨らませた。

 目つきが悪くなっているのできっと腹を立てているのだろう。


「じゃあ、サクラと友達になろうよ」

「いや、俺は子供とは……」

「友達になってよ!!」

「だから」

「あんた、最低、サクラが可哀想じゃないの! ちっちゃい子がお願いしてるんだよ!」

「―――わからねえやつだな。子供の相手はしてられないっていってんの」

「サイテー!」


 口を利けばきくほど激昂していき、まさに小粒な夜叉になっていくサクラがだんだん面倒くさくなっていく。

 しかも、こんなところを誰かに見られたら通報されかねない。

 どうしようもなくなって、林はサクラとの会話を打ち切って、階段を昇り始めた。

 一刻も早く遠ざからないと。


「待ってよ!」


 背広の裾を掴まれた。

 だが、幼女の力などたいしたものではない。

 完全に振り切ってしまえばいい。

 林はさっさと歩きだそうとした。

 だが、がくっと身体が止まる。

 裾を引っ張られているせいで動けなくなったのだ。


「な、なんだよ! いい加減にしてくれよ!」


 イラつきながら振り向いた林は、背筋におぞましい寒気が走るのを感じた。

 彼の背広を掴んでいたのは、サクラであったが、サクラではなかった。

 顔の四分の一を占めるかのように肥大化した眼は、人間のものとは思えなかった。

 角度のせいではない。

 確実に、サクラの眼は肥大化していたのだ。


「ひぃ!!」


 思わず、引き攣った声が出る。

 人間は予想していない出来事に遭遇したとき、まともな反応などできはしないのだ。


『サクラをイジメようとした。友達なのに、嘘をついた』

「イジメてない! おまえなんか友達でもない!」

『サクラはあんたのことが嫌い。嫌い。嫌いだ。だから、あんたなんて死んじゃえばいいの!』


 サクラの腕が伸びだ。

 子供の腕がこんなに長い訳はない。

 身長差があるはずなのに、どうして

 そして、この異常なまでに強い力はどこからやってくるのか。

 親指が喉を強く圧迫し、林は呼吸がまったくできなくなった。

 しかも、サクラを力づくで排除しようとしても頑として動かない。


(く、苦しい……)


 意識がなくなっていく。

 眼が擦れ、何も見えなくなる寸前、林の視界にサクラの顔が見えた。

 肥大化した眼だけでなく、耳まで裂けた口から、鮫のような牙がずらりと並んでいた。

 それだけでなく、口の奥で蟲のごとく蠢く長い舌も。

 あまりのおぞましさに、林はそれを確認した瞬間に……


 気を失った。


『あんたなんて産まれてこなければよかったのに……』


 呪いのような言葉がいつまでも耳から離れなそうもなかった。



     ◇◆◇



「―――その林何某は、ここで倒れていたんだね」

『ソウジャ、巫女ヨ』

「わかった。あとはボクに任せてくれ。八咫烏は何かわかったら、また教えてくれ」

『……ソレハイイガ、珍シク小僧ハイナイノカ? 巫女ダケダト危険デハナイノカ?』

「別に京一がいなくても問題ないよ。さあ、さっさと帰るんだ」


 あたしは久しぶりに喋るカラスを見た。

 たまにお兄ちゃんの部屋のベランダにとまっていて、水を飲んだりしているので馴染みがあるといえば馴染みがある。

 お兄ちゃんとは仲が良くないらしく、よく口喧嘩をしているところも見かけたことがある。

 なんでも、使い魔というものらしく、普通の鳥ではないみたいだ。

 でないと、お喋りはしないよなあ。

 カタコトだけど。

 でも、退魔巫女のお姉さまたちと違って、普通の高校生の癖にあれと友達付き合いができるうちのお兄ちゃんは中々のツワモノだよね。

 昔からあまりものに動じないとは思っていたけど、身内の想像以上にずれていたみたい。


「あ、カラスさん。お兄ちゃんとこれからも仲良くしてあげてね」


 するとカラスは、じっとあたしを見て、


『貴様モ小僧ト同ジナノカ……。マッタク兄妹ソロッテ難儀ナコトダ』


 と愚痴るように呟いた。

 どういう意味だろうか。

 鳥類に哀愁ある態度をとられると対応に困るというものだ。


『言ッテオクガ、我ハ貴様ノ兄トハ仲良イ関係デハナイカラナ。カアーーーーーーー!!』


 と、ひと声鳴いて飛び去っていった。


「なんだ、八咫烏の奴。珍しいこともあるものだね」

「珍しいんですか?」

「まあね」


 お姉さまは飛び立っていったカラスのことをすぐに頭から外して、アパートの周囲を調べ始めた。

 手にした御祓い棒みたいなものを振ったりして、階段の下などを探っていく。

 その姿は虫眼鏡をもつ名探偵のようでもあった。


「―――妖気があるね。しかも、この感じはやはりサクラのものと同じだ。その意識がないという被害者の傷口を調べればもっとはっきりするだろうけど」

「お姉さま、それはサクラがやったということでいいの?」

「まあね。ただ、これでサクラが人に害をなす悪霊になったという事実が立証されてしまった訳だ。こうなる前に止めて成仏させたかったところだったのに」


 かなり悔しそうなお姉さま。

 悪霊であったとしても、小さな子供の姿をしたものが悪業をなすということが痛恨なのだろう。

 この人はそういう優しい女性だ。


「そこの二階に、被害者の林何某は住んでいたようだね。そこから想像がつくのは、サクラは彼に対しても涼花に言ったように『家に上げてくれ』とせがんだんだろう。それを断られたから襲った」

「……そんな気はします」


 お姉さまは腕組みをした。

 いつもの考える仕草だ。


「ただ、不思議なのは、どうして他人の家に上がりたがるんだ? あと、涼花がサクラを家に連れていくことを極端に嫌がることの理由が今一つわからない。確かに、妖魅の類いに名前を教えたり、ヤサを知られるのを嫌がるのはわかる。だが、曲がりなりにも幼稚園のときには友達付き合いをしていたんだろ? ボクの知っている涼花の態度としてはひどく不自然だ」

「……」

「理由を説明してくれるかい?」


 やはり見抜かれちゃったか。

 さすがはお姉さまだ。

 普段は脳筋なんだけど、いざというときはとんでもなく頭が回る。

 あたしは覚悟を決めた。


「わかりました。―――すべて、というか、一つだけなんですけど、理由は」

「それはなんだい?」

「一度だけ、家にサクラをあげたことがあります。そのとき、お兄ちゃんは疲れていたのか自分の部屋で寝ていたんですけど……」

「やはり京一絡みか」

「―――はい。あたしと遊んでいたサクラは、『トイレ』といってすぐに帰ってきませんでした。心配になって、家の中を探しているとお兄ちゃんの部屋にいました。……サクラは裸になって寝ているお兄ちゃんにしがみついていました」


 お姉さまの顔が険しくなる。


「その時、サクラは寝ているお兄ちゃんに腰を……下半身を押し付けていました。大人になってから意味がわかりましたが、当時は不明でした。ただ、なにかしてはいけないことをしているということはわかりました。だから、あたしはサクラを突き飛ばし、服を着せてから家から追い出しました。絶交もしました。それ以来、あたしはサクラと口もきいていません」

「子供の時のいたずらとしてはちっょと性的すぎるね……」

「サクラが行方不明になったのはそれから数か月後でした」


 あたしとの絶交が原因だったとは思えない。

 だって、その頃にはサクラは大人たちの間でも「良くない子」として認識されてしまっていたからだ。

 ただでさえ少ない友達も、親に言われてサクラとは遊ばなくなっていた。

 行方不明のときには、サクラの周りには誰もいなかったと思う。

 だけど、あたしは時折彼女のことを思い出し、もう少し別の付き合いがあったんではないかと自問自答することがあった。

 今回のように、まるであの世から彼女が帰ってきたような場合を想定したことはなかったけど、再会してしまった以上、なにかをしてあげなければならないような気がする。

 例え、それが偽善だったとしても。


「なるほどね。なんとなく背景が見えてきた。―――行方不明になる前のサクラの行動から見えてことがあるね」

「なんですか、それ」

「つまり、サクラは、今でいうところの放置子だったんだろう。そう考えれば彼女の行動が納得できるものになる」


 放置子?

 まさか……


「サクラが他人の家に入りたがるのは、自分の家に帰れないからなんだろう。―――よし、これでかなり解決の糸口がつかめたぞ。行くぞ、涼花」


 お姉さまが歩き出した。

 あたしにはまったくわからない答えを見出して。



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