第185話「女神さまはサウスポー」
ボクシングの生命線はフットワークと間合いだ。
スーパーヘヴィ級の圧して押して押し捲る戦い方ならばともかく、ほぼすべての階級のボクサーはステップを駆使して、相手との距離を保ち、ときには縮め、腕の長さしかない射程距離に敵を捉えようとする。
腕などというものはどんなに長くても一メートル程度しかない。
相手の顔を殴るとしたら、本当に目の前にまで接近しなくてはならないのであり、同時にそこは敵の手の届く範囲でさえある。
そして、ボクシングはパンチしか使ってはならない闘技だ。
つまり、ボクサーはこの世界で一番近づかなくてはならない激戦地に侵入し続けなければならない勇者揃いということであった。
もっとも、これが競技としてのボクシングの試合であれば相手に抱き付くクリンチなどで休んだり、出足を阻止したりもできるが、異種格闘戦ではやってはいけない。
なぜならば、ボクシング以外の闘技では投げも蹴りも極めもでき、組みつかれたらそれでおしまいということばかりだからだ。
それは妖怪相手ではさらに顕著だ。
ほとんどの妖怪は恐ろしい膂力の持ち主であり、鋭い牙と爪を備え、とんでもない秘儀を隠している。
妖怪相手にクリンチなど絶対にできない。
さらにいうと、猫耳藍色は身体も160センチそこそこと小柄であることから、クリンチをしたとしても簡単に引きはがされてしまうという欠点がある。
ゆえに藍色は、クリンチを絶対に使わず、常にボクシングの生命線であるフットワークをもって機動力で勝負し続ける。
今回もそうだった。
薬の入った壺を抱えた〈治す係〉の〈鎌鼬〉までが周囲を飛び回り、高速で彼女をかき混ぜようとし、しつこく伸びてきて襲い掛かる死の鎌を躱しながら、藍色は一瞬たりとも足を止めない。
三対一の不利な状況では気を抜いたら一瞬で首を持っていかれる。
『キシャアアアアアア!!』
彼女の首を狙って鎌が振るわれる。
大雑把な一撃だったからかスウェーバックで躱すのは容易だった。
(首か顔ばかりを狙ってくる……。もしくは伸ばした手足……。ああ、そういうことですか)
藍色はすでに〈鎌鼬〉の攻撃パターンを読み切っていた。
むしろ、四肢と頭部だけを狙われていた方がやりやすいといえる。
しかし、問題は下手にジャブを打つこともできないという点であった。
ジャブをだして腕が伸びきったところを斬られてはもう逆転することはできない。
(……〈震打〉を使う?)
藍色のフィニッシュブローの一つである〈震打〉を当てることさえできれば確実に仕留めることはできるだろう。
ただし、これだけ高速移動を繰り返し、散発的ながらも攻撃を重ねてくる〈鎌鼬〉相手では、調息をして気を練る時間的余裕がない。
そもそも〈震打〉は中国拳法の寸勁から発想を得て習得した技であることから、極めて近代的ボクシングの使い手である藍色とは相性が悪いこともある。
まだうまく戦術には組み込めないのだ。
もう一つのフィニッシュブローは地面を伝わる衝撃波なので、これだけ周囲を飛び回る妖怪相手では伝播させられるかも難しい。
あの御子内或子すら倒せる可能性のある技であったとしても、当たらなければどうということはない。
(つまり、ただのボクシングで勝つしかにゃいわけね)
考えつつも、足を動かし、三匹の〈鎌鼬〉の猛攻をしのぎ続ける。
しかし、このままいけば確実にジリ貧だ。
なにしろ迂闊に手を出すことができないのだから。
死の竜巻を前にして、藍色は防戦―――いや、躱し続けるだけで手一杯の窮地に陥っていた。
「藍色、手を出しなさい! そのままではマズイ!」
父親の叱咤が飛ぶ。
だが、出せるものなら出している。
鎌に腕を落とされる恐怖に打ち勝って攻撃するしかないが、いかに藍色といえどもそれは究極の覚悟が必要だった。
四肢の一本を失う覚悟を。
「猫耳さん、頑張って!! 頑張って……!」
―――泣き声がした。
藍色の背中にいる女の子のものだった。
女の命ともいえる顔に凄惨な傷を受けて苦しむものの声だった。
何も罪もないのに、突然妖魅の襲撃に晒され、目覚めたときには顔の半分に引き攣りももたらす傷を負った女の子が、必死で藍色を応援していた。
藍色が〈治す係〉の〈鎌鼬〉から薬の壺を奪い取るのを待っている。
……いや、違う。
日野さんは、純粋にわたしを応援してくれている。
頑張ってくれと叫んでいる。
心が伝わってくる。
自分の傷のことよりも、わたしを心配してくれている。
「―――待っていてにゃ。絶対に傷を治してあげるから」
傷を治して……
藍色の脳裏に新しい作戦が浮かんだ。
危険極まりないが彼女ならばできる程度の単純な作戦だ。
あの御子内或子の友達であることを証明するような、大胆不敵なものであったが。
「いくかにゃ」
一度、覚悟を決めるとあとはもう動くだけだった。
リングの中央に陣取ると、またも〈鎌鼬〉たちの襲撃を躱し続ける。
ただ、今回は違う。
一瞬だけ、足元に隙をつくった。
まるで限界が来たかのようなふらっとした隙を。
それを見て、〈転ばす係〉がマットすれすれを滑るように接近してくると、くいっと足首を引っかける。
藍色は足を払われ転びそうになった。
だが、力を入れて踏ん張り、逆に右のストレートをぶちこもうとする。
体勢が悪いからか、力の入りきらないへなちょこパンチになった。
もちろん、そこを見逃す〈鎌鼬〉ではない。
特に〈鎌鼬〉の行動パターンである「転ばす→斬る→治す」という順番に従ってくる、〈斬る係〉の〈鎌鼬〉の斬撃を防ぐことはできなかった。
スパン
右手を引ききる前に藍色の肘から先が落ちた。
熟した果実が地面に落ちるように。
とん、とさっきまで繋がっていた右手がマットにゴミのように転がる。
「藍色!」
「猫耳さん!!」
観客二人の絶叫が轟き渡る。
娘と友人の腕が落とされるシーンを目撃してしまった以上、当然のことだろう。
だが、当の藍色は平然としていた。
それどころか、〈鎌鼬〉の行動様式に従い、接近して来た〈治す係〉に肉薄する。
『ギョッ!』
壺を持った〈鎌鼬〉は三匹の中で最も動きが鈍いせいでその藍色の神速に反応するのが遅かった。
「遅い! 撃ち貫くのみにゃ!」
藍色の左ストレートが
妖怪の腐った脳みそを破壊するが如き拳撃であった。
そして、それと同時に囲みが崩れる。
三匹の息の合ったコンビネーションがあってこその、藍色に対する優位にほころびが生じた。
そうなれば話は変わる。
これまでの防戦一方だった戦いの趨勢が決するに十分なほころびだった。
「右手がにゃいぐらいでええええ!!」
隻腕となったとしても、退魔巫女は、巫女ボクサーは止まらない。
スタイルをスイッチして、左ジャブを〈転ばす係〉にぶちこみ、弱らせるともう一度スイッチして左利きに戻る。
そのまま左のフックを横っ面に叩き込んだ。
衝撃で折れた牙を吐き散らして二匹目の〈鎌鼬〉がマットに沈みこむ。
『キシャアアアアアア!!』
兄弟二匹を一瞬で仕留められた〈斬る係〉が咆哮する。
それは嘆きか、驚きか。
ここまで人間に近い癖に喋らない妖怪は珍しいと思いながら、藍色は最後に残った〈鎌鼬〉に迫った。
そして、拳を一回転させるように捻り、コークスクリューをかけつつ、敵の心臓にヒットした瞬間、もう反対に一度捻る。
二重の回転とフックの捻りの相乗効果が生じた。
ブーメランのように弧を描き、スクリューの効果で〈鎌鼬〉が吹き飛ぶ。
「やああああああ!!」
横軸に回転してマットに叩き付けられた〈鎌鼬〉はどんな吼え声もたてることなく動かなくなった。
同時に10カウントがどこからともなく聞こえてくる。
10までいったとき、三匹の〈鎌鼬〉は封印されて消えていった。
「―――はい、傷薬を手に入れました」
リングサイドで待っていた摩耶に話しかけた藍色の手には、〈鎌鼬〉の〈治す係〉が持っていた壺があった。
だが、差し出された側の摩耶は彼女の死闘を目撃したショックで泣きそうな顔をして、
「でも、でも、猫耳さんの手が……!?」
「ああ、これはすぐくっつきます。見ててくださいね」
壺の中に入っていたやや不気味な臭いのする白い薬を傷口に塗り込んで、転がっていた右手をつけるとすぐに接着が完了した。
ぎゅっと拳を握る意志を持つとタイムラグなしにアクションが起きる。
神経まで完全に回復していた。
ある意味では現代の最先端医療を凌駕する恐ろしい傷薬である。
しかし、なにはともあれ藍色が五体満足な姿に戻れたのは確かである。
「嘘……」
「これぐらいでにゃいと、〈鎌鼬〉の傷なんて治らないからね。―――さ、包帯をとって」
「はい……」
数秒もしないうちに、摩耶の顔についた傷までが完全に治った。
当の摩耶が信じられないというぐらいに茫然となるぐらいのあっという間の出来事であった。
自分の戦いがもたらした結果に、ようやく藍色が納得しかけたとき、隣にいた父親が言った。
「―――藍色、さっきの〈鎌鼬〉たち、おそらく日本のものじゃないぞ」
「どういうこと、パパあ」
「つまり、外来種の〈鎌鼬〉ということだよ。そんなものがいるとは聞いたこともなかったけれど」
藍色は道理で会話もできなかったと思い出した。
こぶしには、どうして暴れているのかをつきとめろと言われていたことも。
「まあ、そんにゃことはどうでもいいか」
「どうしてだい?」
「んー、あえていうのにゃら……」
ようやく気を取り戻した摩耶の傷一つない顔を見ながら、
「日野さんという女の子を救えたからかにゃ」
猫耳藍色は、実のところ、たったそれだけで十分に満足であった。
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