第160話「前髪の憂鬱」
柳生美厳は、深夜になると堂々とした足取りで、その農家の中に侵入していった。
誰に見咎められることもなく、例え見つかったとしても怪しまれることもなさそうなほどに堂々たるものだった。
腰に一振りの刀を佩き、袴をはかない着流し姿で歩む姿は、時代劇の素浪人そのものであったが、武士階級が消えてなくなった現代においてもなんの違和感もない佇まいというのはそれはそれで脅威である。
僕は仕掛けておいた監視カメラで確認するしかない立場だったが、それでも美厳さんがリラックスしているのはわかった。
襟もとにつけているマイクから鼻歌が聞こえてくるのだから。
『ふうはしれー、おらをとえー、うらっくあたんをたおすまえー』
マイクを通してなのではっきりとは聞こえないが、僕にも聞き覚えのある歌だった。
どう聞いてみてもブラックサタンを倒して平和を守るという歌だった。
あれ、もしかして美厳さんって……
「姉上、ご機嫌みたいです」
「冬弥さん……」
「昔から、ああいうのが好きな姉なんです。しかも、今回は愉しいことだらけなんで、テンションもあがっているみたいで……」
そうなんだ。
狙撃の囮なるなんてどう考えても貧乏くじなのに、美厳さんには楽しいんだ。
まあ、そのあたりは御子内さんもそうだし、武人の独特な思考形態なのかもしれない。
『蔵の中を適当に見て回っている。さっきから嫌な予感がバリバリしているな。どうやら、おれのことに気づいたらしいぞ』
「早いですね。やはり、自分を追うものを許さないというスタンスなのでしょうか」
「でしょう。本来はもっと自由に人狩りを楽しみたかったところを、〈社務所〉の禰宜に見つかってすぐに自分のアジトまで調べられるようになった。その反動でしょうか」
妖しい種子島に操られている人物は、もう完全に追い詰められている。
ただ、一縷の望みをかけて、自分を探る追手を始末しているに過ぎない。
今、自分に迫っているものが、ただの人間ではないと知らずに。
「姉上、それでは外に出てください。例の位置に」
『わかった』
美厳さんはさっと蔵からでると、そのまま屋根に昇る。
そして、刀の鍔でできた眼帯を外した。
「あれ、ないと困りませんか」
「姉上は本来ならば両目とも健常ですよ。眼帯などつける必要はありません」
「じゃあ、どうして……」
「見ていてください」
そのまま、彼女は眼を閉じた。
今まで開けていた左目を。
眼帯で遮られていたはずの右目だけを爛々と輝かせる。
しん、と空気が静まり返る。
どう考えてもおかしい。
彼女の片目に睥睨されたせいで、大気そのものが動きを止めたかのような沈黙が広がっていくのだ。
なんだ、何をしているのだ。
これまでにも何度か退魔巫女たちの、術とも奥義ともいえるものを見てきたが、これはそのどれとも違う。
あえて言うのならば……
「妖怪の秘儀……?」
「かもしれませんね。武蔵野柳生がこれまで培ってきた人外なるものを斬るための技ですから」
「なんだよ、それ……」
「説明はいたしかねます。うちの門弟でもない京一さまには、お見せするだけでも実は危ないレベルなのですから」
美厳さんは片膝をついた。
隻眼となった右目が夜の闇を穿つ。
彼女の周囲にまとわりつく大気そのものがぐにゃりと歪む。
見間違いではない。
確実に酸素が、窒素が、水素が、美厳さんの発する気の力によって捻じ曲げられたのだ。
それはまさに妖怪の持つ妖気に近い効果であった。
何をしているかはわからないが、間違いなく彼女の傍には不可視の結界が形成されていた。
そして、次の瞬間、どこからともなくパンと破裂音が聞こえてきて、ほぼ同時に美厳さんの右手が動いた。
刀を立てただけの動作であったというのに、僕にはそれが恐ろしいほどに奇跡的で、信じられない神業であることを理解した。
美厳さんは自分にとっての死角に当たる左横から放たれた銃弾を見もせずに弾いたのだ。
理屈はわからない。
ただ彼女はそれができるからこそ、囮に志願したのだ。
僕は叫んだ。
「御子内さん、GO!! 東南東にある林の中だ!!」
『合点承知!!』
少し離れていた場所に潜んでいた御子内さんが、梓弓を片手に飛び出す。
彼女のいたところから、狙撃ポイントと思われる場所までは約四百メートル。
梓弓の射程距離までは御子内さんなら、二十秒で到達する。
あっというまに、辿り着いた彼女は口にくわえていた鏑矢を番え、引き絞った。
その視線は林の中にいるごく普通の格好の青年に注がれる。
手には身体のサイズにそぐわない種子島鉄砲を持ち、銃口を御子内さんに向けている。
逃げずに、早合を使い、弾込めを行っていたのだ。
美厳さんを仕留めるためか、それとも他の敵を倒すためかはともかく。
そして、その銃口がターゲットとして捉えているのは御子内或子―――退魔巫女だった。
彼女の視線も青年を捉える。
交錯する。
一キロを撃ち抜く鉄砲のスナイパーと、三百メートルを射抜くと豪語する巫女。
この二人は互いに貫く相手を凝視した。
御子内さんの弓の腕を僕は知らない。
彼女について知っているのは徒手空拳の格闘においては、おそらくどんな敵にも負けない闘魂と技術と知恵の持ち主であるということだけ。
武器の類いなんか、彼女は使ったことがないのだ。
だが、僕は心配していない。
御子内さんが大丈夫というのならば大丈夫なのだ。
この信仰にも似た信頼こそが、僕の御子内さんに対する感情なのだから。
『よっぴいてひょうと放つよ!!』
平家物語の頃から伝わるギャグを御子内さんが呟く。
バン!
ビシュン!!
銃と弓が、弦を鳴らして、火薬を炸裂させて、弾と矢を放つ音がした。
ただ、カメラを通して戦いを見ていた僕にはどうなったのかがわからない。
御子内さんが無事に立ち尽くしていることだけしか。
御子内さんの放った矢はどうなったのだろう。
『―――冬弥、もういいからこぶしと〈裏柳生〉の忍びを向かわせてくれ。殺しちゃいないけど、肩の腱ぐらいは切れたかもしれない。手当を頼む』
「わかりました」
カメラの視点が急に下がった。
大仕事を終えて脱力したのか、彼女が座り込んだのだ。
マイクが荒い息をする音を拾う。
そうとうゼーゼー言っている。
「御子内さん、大丈夫?」
『まあね。とはいえ、前髪を結構持っていかれた。しまったよ……明日学校に行きたくない』
「え、どういうこと?」
『前髪にはわりとこだわりがあるんだよ。くそ、失敗した。ボク、こんなんで退魔巫女やっていていいのかな。前髪が揃っていないのに……』
「前髪程度で卑屈にならないで! あと、君にそんなこだわりがあること自体にびっくりだよ!!」
思わずツッコミを入れてしまった。
僕としたことが珍しい。
『ボク、退魔巫女やっていいのかい?』
「うん、大丈夫だって。僕が保証するから」
『そうか。京一が言うのならばそれでもいいか……。でも、前髪……』
「面倒だな、この子!!」
そんなやりとりをしていると、冬弥さんのところに連絡が入った。
「―――或子さんの鏑矢で銃口を真っ二つにされた種子島鉄砲をこぶしさんが確保したそうです。〈付喪神〉としての妖気が残っていたそうなので、〈社務所〉の方に持って帰られると。ついでに見つけた砲手の方はうちで調べることにします」
「そうですか」
「とりあえず、背景を調べるのは後回しにしたとしても、一件落着ということでお願いしますね」
僕は長い息を吐いた。
スナイパーと戦うなんて普通はあり得ない話に、御子内さんが怪我もなく切り抜けられたということだけで良かった。
しかし、ただの妖怪退治とは違って、美厳さんたち〈裏柳生〉と絡むと本当にろくでもないことだらけだ。
もう関わり合いになりたくないな、とさすがの僕でさえ願わずにはいられない三日間であった……。
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