黒い犬は妖しく鳴く(5)
重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。聞き慣れたアラームの音が幸善の耳を揺らす。ゆっくりと手を伸ばすと、ベッドの隣のテーブルのいつもの位置に、幸善のスマートフォンが置かれていた。アラームを止めながら、不意に幸善は身体を起こし、周囲に目を向ける。
そこは自分の部屋だった。スマートフォンに表示された日付は幸善の感覚からいうと翌日のものであり、時間はいつも早朝に起きている時間だ。
おかしい、とすぐに思った。さっきまで幸善は犬を拾い、奇妙な噂のあるトイレから地下に降り、そこで意味の分からない話を聞かされていたはずだ。
それがいつのまにか部屋のベッドで横になり、いつのまにか翌日の朝になっていた。
そう思ったところで、幸善は当たり前のことに気づいた。
(ああ、夢か…)
そう考えると酷く納得がいった。喋る犬も、ボタンが一つしかないエレベーターも、爆散する煎餅も、全て夢ならあり得ることだ。
しかし夢だとしたら、とても変わった夢だったと思う。超能力者とか、もっと分かりやすい設定ならともかく、仙人とか妖怪とか、自分のどこにそのような発想があったのか思うような設定ばかりだった。
次はもう少し、真面な夢が見たいと思いながら、幸善はベッドから抜け出し、学校に行く支度を始めた。
「あ、おはよう」
そう挨拶をされたのは、幸善が部屋を出たところで、同じように自分の部屋から出てきた妹の頼堂
「何?」
「いや、お兄ちゃんって、いつ帰ってきてたの?」
「ん?あー…俺も良く覚えてない」
「だよね。昨日逢った記憶がない。晩御飯の時とかいなかったよね?あれ?いたっけ?」
「いや、それくらいは覚えておいてくれよ」
千明と話しながら、幸善は自分の記憶を思い返してみるが、やはり前日の記憶が曖昧だった。犬を拾ったことに関係する一連の夢の内容しか思い出せず、それも途中で途切れている。自分がどのタイミングで家に帰り、どのタイミングで眠りについたのか全く思い出せない。
(あれ…?)
もしかしたら、夢ではないのかという気持ちは湧いてくるが、現実よりも夢と思った方がしっくり来る内容に、どうしても夢ではないと思うことができない。
そう考えながらも、幸善は学校に向かうために家を出る。その中で不意に商店街での追いかけっこの際に、爆発が起きていたことを思い出した。あの爆発の原因はいまいち分からないが、あれが夢なら原因は関係ない。
ただし、現実なら原因や起きたことは必ず話題になっているはずだと思った。そのことを聞いたら、夢か現実かの判断はつく。
そう思った幸善は学校に到着するなり、教室にいた東雲と我妻に早速商店街でのことを聞いていた。
「商店街で爆発?あったっけ?」
「いや、聞いていない」
「だよな」
やはり、あれは夢だったかと思いながら、幸善は昨日のことを考える。あれが夢なら、自分が現実にどのような行動を取っていたのか答えがあるはずだが、それが一切思い出せない。
「昨日って一緒に帰った?」
「いや、昨日は部活だった」
「私も買い物を頼まれてたから」
「だよな」
「どうしたの?」
「昨日どうやって帰ったのか思い出せないんだよ」
幸善が首を傾げながら呟くと、東雲と我妻が少し驚いたように顔を見合わせている。
「病院行く?」
「いや、隠れてお酒の可能性も…」
「違う!?病気じゃないし、酔ったわけでもない!?」
そう言いながら、不意に幸善はお茶を飲んだことを思い出していた。それを飲んだ直後に意識を失った気がするが、あのお茶に何か入っていたのだろうかと考え、すぐに夢のことを考えても仕方がないと思い直す。
「どんな病気でも私達は一緒にいるからね」
「諦めずに戦おうな」
「病気前提で話すな」
冗談を交えながらも、幸善を心配した様子を見せる東雲と我妻に、幸善はこれ以上深く考えることをやめることにした。あまり覚えていないが、それは夢の内容が強烈だったからで、きっと普通の放課後を過ごしたに違いない。千明は幸善がいなかったと言っていたが、あの様子だといたとしても、千明は覚えていなかった可能性があるので、その話も当てにならない。
ちょっと忘れたくらいで、特に問題はない。そう結論づけて、いつもと変わらない一日を終えた幸善が、帰ってきた家のリビングで寛ごうとしていた時だった。幸善に少し遅れて、千明が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえ…」
そこで幸善の言葉が止まった。千明の腕の中に目を向けたまま、固まってしまって動けなくなっている。
「えっとね。この子はね。さっき、そこで拾って。うちで飼えないかなって思って。ちょっとお母さんに言ってくるね」
少し照れたように言ってから、千明は腕の中のそれをリビングに置き、階段を駆け上がっていく。幸善はリビングに残された、それと目を合わせながら、ただ呼吸を繰り返していた。
「よう、どうやら元気みたいだな」
声変わり前の少年の声がして、幸善の目は更に見開かれる。ゆっくりと頬を摘み、頬に確かな痛みがあることに気づく。
そういえば、あの商店街で爆発から転がった時、酷い痛みを覚えたと、そこでようやく思い出した。
「夢じゃない…」
そう呟いた幸善の目の前にいる黒い犬は間違いなく、夢の中で拾った犬であり、夢の中と同じように流暢な日本語を口から発していた。
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