五月蝿く聞くより目を光らす(14)

 ハエ人間の姿が消えると同時に、ノワールの鼻がピクピクと動き始めた。相亀は目を凝らしても、ハエ人間の姿を追うことが難しい。見るだけ不要だと辺りを見回すこともやめて、ひたすらに合図を待つ。


 やがて、ノワールが相亀の服を噛み、軽く引っ張った。右肩を右腕の方向に引っ張られ、相亀の視線は自然と右を向く。


 それと同時に相亀が拳を構えた直後、ハエ人間が相亀の視線の先に姿を現した。


 その瞬間を狙い、相亀はハエ人間の身体に拳を振るう。ハエ人間は攻撃のモーションに入る直前であり、相亀に攻撃を繰り出すどころか、防御すら真面に取れていない。


 腹に一発、相亀の拳がぶつかると、ハエ人間の腹に罅が入り、そこから土が零れ落ちる。

 同時にハエ人間の身体が吹き飛びかけるが、それは許さないと言わんばかりに、相亀はハエ人間の腕を掴んだ。


「逃がすかよ!」


 相亀は更に一発、二発とハエ人間の腹に拳を叩き込み、ハエ人間は初めて口から呻き声のような音を漏らした。


 その時になって気づいたことだが、ハエ人間の体表には硬い膜のようなものが張ってあったようだ。さっきまでカウンターで殴りつけていた感触と、今の追撃の感触では、圧倒的な違いがあった。


 やはり、あの土は衝撃を緩和する緩衝材になっていたらしい。


 それなら、このままハエ人間を殴り切ろうと、相亀が更に拳に力を入れた直後、ハエ人間の全身から砂粒がスプリンクラーのように吹き出した。


 噴射された砂に相亀とノワールの目は潰され、相亀は逃げるようにハエ人間から距離を取った。その隙にハエ人間は再び姿を消し、羽音が相亀の耳に障る。


「悪い。放しちまった。もう一回、頼む」


 砂を取り除くように瞬きを繰り返しながら、相亀が右肩のノワールに声をかけた。その時にはもうノワールの鼻は既に動いていて、しばらくすると、相亀の右肩が背中に向かって引っ張られる。

 それに対応し、相亀が背後を見た瞬間、その場所にハエ人間が現れた。


 さっきまで相亀がハエ人間に一発しか拳を叩き込めなかった理由は、それがカウンターだったからだ。事前に一切の準備をせず、ただひたすらに反射だけで拳を叩き込んでいたので、追撃に行く余裕がなかった。


 だが、事前にハエ人間の来る方向が分かっていたら、一度目の攻撃どころか、追撃のための余裕が生まれる。

 ノワールの鼻がハエ人間を補足してくれることで、相亀の攻撃は確実にハエ人間にダメージを与える一撃に変貌していた。


 姿を現したハエ人間を殴り飛ばし、表面の土を落としてから、再度相亀は拳を連続で叩き込む。一発、二発と叩き込んだところで、ハエ人間の口から呻き声のような音が漏れ、相亀はさっきの光景を思い出す。


 さっきは砂粒がハエ人間の全身から噴射され、相亀は思わず手を離してしまったが、ノワールの鼻がハエ人間を補足することで、相亀が攻撃のために準備する余裕が生まれたように、先に行動が分かっていたら、対処が難しいものではない。


 拳を掲げた相亀が拳を振り下ろす直前、ハエ人間の全身を覆った土が崩れ、砂粒となって飛び出す瞬間を確認した相亀は、咄嗟に拳の行き先を足元に変えていた。


 相亀の拳が地面にぶつかり、激しい衝撃を受けた地面は土を大きく跳ね上げる。ハエ人間の身体から飛び出した砂粒は、その衝撃で生まれた土煙にぶつかり、相亀に届くことがなかった。


「目には目を、歯には歯を、砂には砂を作戦だ!」


 そう叫び、相亀が掴んだハエ人間の腕を引っ張った直後、ハエ人間が激しい音を口から漏らした。呻き声とも怒声とも取れる音だが、それが声なのかは分からない。


 どちらにしても、ハエ人間の漏らす音など関係なく、相亀は引っ張った腕の先にあるハエ人間の腹を狙って、躊躇うことなく拳を振り抜いた。


 しかし、その拳がハエ人間の身体に触れることなく、土煙の中を横切るだけだった。


「うおっ!?あ、あれ……?」


 手応えのなさに驚く相亀が掴んだ腕を引っ張り、ハエ人間の姿を確認しようとした瞬間、引っ張った腕だけが手元にあることに相亀はようやく気づく。


 ハエ人間の左肩に当たる部分から、引っ張った左腕が完全に千切れているようだ。

 もちろん、相亀が引っ張った程度で千切れるはずがない。これを千切ったとしたら、身体と腕を同時に引く必要があるので、それができたのはハエ人間本人だけだ。


「おいおい、マジかよ……」


 ハエ人間の奇策に相亀が引いていると、相亀から離れた位置に移動したハエ人間が、少しずつ口を動かし始めた。何かを食べるようであり、何かを言おうとしているようだったが、その口から音が漏れることはなかった。


 代わりに土煙が口の中から少しずつ漏れ始めた。


「何をしてるんだ?」


 そう呟いている間にも土煙は広がり、ほんの数秒でハエ人間の身体を完全に覆ってしまう。


 その瞬間、ハエ人間のいた付近で、大きく掻き分けるように土煙が動き、土煙の中に見えていたハエ人間のシルエットが消えた。


「出番だ!」


 咄嗟に相亀がノワールに声をかけ、ノワールが鼻をピクピクと動かす。

 その間に拳を構えて、次の一撃で終わらせようと考える相亀の肩で、不意にノワールが叫んだ。


「ワン!」

「うわっ!?何だよ!?」


 驚きを口にしながら、相亀がノワールに目を向けた瞬間、視界の左端でハエ人間の姿が現れるのが僅かに見えた。

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