群狼は静かに牙を剥く(2)

 重戸えと茉莉まりは過去最高に機嫌が悪かった。軽く触れただけで、周囲に怪我をさせそうなほどに刺々しい雰囲気をまとい、出版社に出社する。


 機嫌の悪さの原因は前日にあった。謎の巨大な蜘蛛に餌として吊るされた後のことだ。そこからのことはほとんど何があったのか分からないが、問題はその蜘蛛の巣から降ろされた後だった。


 実は密かに周囲の様子を窺っていた重戸が、例の写真の少年を見つけて浦見うらみ十鶴とつるがどのように助けてくれるのか待っていたのだが、浦見はそこから逃げ出したのだ。少年達はその浦見の突然の行動に驚いていたが、気を失ったフリをしていた重戸もその行動には驚いた。


 結局、重戸は重戸と巨大な蜘蛛を見張っていた少年が、重戸から目を逸らした隙にこっそり逃げ出すことになってしまった。その後も浦見と逢う機会はなく、重戸は浦見に対する鬱憤を溜め込んだまま、その翌日に当たる今日を迎えていた。


 重戸の頭の中には文句の言葉が並んでいた。勝手に逃げ出したとか、逃げ出したところは良かったとしても助ける素振りくらいは見せられただろうとか、言いたい言葉が湯水のように湧いてきて、重戸の中に怒りとして溜まっていく。


 そして、ついに出版社で対面した浦見は、重戸の文句の量に反して、非常に嬉しそうな笑顔をしていた。その笑顔のあまりの腹立たしさに、重戸は思わず浦見の足に渾身のローキックを噛ましていた。


「何で!?」


 思わず叫び声を上げながら、浦見は膝から崩れ落ち、蹴られた足を両手で抱え込むように押さえている。重戸はその浦見を冷たく見下しながら、爪先を追加で踏みつけたい気持ちをグッと抑えた。


「何で、助けてくれないんですか?あの後、私は自力で逃げ出したんですけど…?」

「え?ああ、逃げられたの?記憶とか消されてない?」

「消されていたら、もっとぐっすり眠れてましたね」

「ああ、そうなんだ…良かったね」


 痛みに顔を歪めながら、何とか作った浦見の笑顔に、重戸は盛大な腹立たしさを覚え、さっきは堪えた感情のまま、浦見の爪先を踏み潰した。


「良くないですよ。普通はもっと助ける素振りとか見せるでしょう?何、そのまま逃げてるんですか?ちょっとは根性見せてくださいよ」


 声も出せずに悶えていた浦見が、目尻に涙を浮かべた顔を上げ、重戸を怯えた様子で見上げてくる。


「いや、でも、二人共記憶を消されたら大変だから。俺くらいは逃げないといけないって思って」

「私は生贄ですか?先輩の記憶を守るための贄ですか?そこは私を助けて、先輩が代わりに記憶を消されてきたら良かったじゃないですか!?」

「いや、俺は記憶消されたくないし」

「私も嫌ですよ!?」


 編集部中の視線を一点に集めながら、盛大に鬱憤を晴らした重戸は、ようやく落ちつきを取り戻し始めていた。半分泣いていた浦見も痛みが引いてきたのか、再び立ち上がることができている。


「ていうか、先輩はあの後、逃げ切ったんですか?ここにいるってことはそういうことですよね?」

「ああ、そう。たまたま知り合った高校生に助けてもらったんだけど、そこで衝撃の事実が分かったんだよ」

「衝撃の事実?」


 さっきまでの痛みを忘れたように、急に元気を取り戻した浦見を見て、重戸は思わず顔を歪めていた。浦見が自信満々な時はロクなことがない。特にそのことを体験したばかりの重戸からすると、元気を取り戻した浦見の笑顔が、悪魔の笑顔のように思えてしまう。

 重戸は浦見の続きの言葉を聞きたくなかったが、重戸のその気持ちを浦見が察してくれるわけもない。子供のように無邪気な笑顔のまま、浦見は重戸にスマートフォンを見せつけてきた。


「これだ」


 そう言って突き出された画面には、近くの高校の写真が映し出されている。その画像を見つめながら、重戸は浦見の言葉足らずな説明に首を傾げた。


「どういうことですか?何が衝撃の事実なんですか?」

「例の写真の少年が通っている高校。それがここなんだよ」

「はあ?」


 出自不明の情報を自信満々に突き出してくる浦見に、重戸は困惑や呆れを通り越し、心配の気持ちが湧いてきていた。もしかしたら、本人が気づいていないだけで、何かしらの記憶操作を受けているのではないかと本気で考えるほどだ。


「一度、病院に行きましょうか。私も付き添いますから」

「俺って定期的に病院勧められるんだけど、そんなにおかしく見える?」

「先輩が真面に見えたら、私が病院に行きます」

「異常者の扱いじゃん!?」

「気づくのが遅かったですね」


 重戸の扱いに流石の浦見も落ち込んだようだが、気になるのは浦見が高校を特定したところだった。確かに昨日の少年は二人共、同じ制服を着ていたが、そこから特定するためには時間がかかるはずだ。はっきり覚えていたならまだしも、あの状況で浦見が制服をはっきり覚えていられたとは思えない。昨日の女子校を特定した時に、ある程度、制服を覚えていたのだろうかと重戸は思ってみたが、浦見にそこまでの知能があるとは思えなかった。


「この高校って、どうやって特定したんですか?」

「高校…ああ、それはね。たまたま助けてもらった高校生がいるって言ったでしょ?」

「言いましたね。え…?もしかして…?」

「その高校生が例の少年のクラスメイトだったんだよ」


 満開の花のような笑顔に、重戸はひたすらに呆れた顔をしていた。浦見に対して言いたいことは溜まっていくが、それらをまとめて正確な言葉にするには、時間があまりになさすぎる。取り敢えず、急ぎで一言言うとしたら、これくらいの言葉が妥当かと思い、重戸はようやく口を開いた。


「先輩らしいですね」

「どういうこと?」

「そういうところです」


 残りの言いたいことは飲み込んで、重戸は浦見の次の言葉を待つ。もちろん、次の言葉など分かり切っているが、こちらから聞き出すことは敗北に近しい屈辱さがあるので、重戸は意地でも聞いたりしない。


 その決意が伝わったのか、最初から言い出すつもりだったのか分からないが、浦見は笑顔を崩すことなく、口を開き、


「この高校を調べよう」


 と言ってきた。その言葉に重戸がかぶりを振っても意味はない。重戸は仕方なく、浦見の言葉にうなずき、今日の放課後は高校に行くのかと思いながら、自分の席につこうとした。


 その時だった。不思議そうな浦見が声をかけてきた。


「え?どうして、座ろうとしているの?」

「え?いや、夕方に調べに行くんですよね?」

「違うよ。今から行くんだよ。だって、そうしないと下校時間と合ったら、また怪しまれるよ?」


 当たり前のことと言わんばかりに言ってくる浦見に、再び腹立たしさを覚えたが、今度はちゃんと怒りを飲み込んで、重戸は浦見の言う通りにすることにした。荷物を軽くまとめて、さっき来たばかりの会社をすぐ後にする。


「じゃあ、高校…ついでに高校付近で聞き込みだ」


 子供のように元気一杯の浦見を見て、重戸はどこからその活力が湧いてくるのかと不思議でならなかった。

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