憧れから恋人に世界が変わる(1)

 早朝七時、軽石かるいし瑠唯るいはいつものように自宅で目覚めた。九時にはQ支部に到着している必要があるので、家を出るのは大体八時半頃だ。それまでに身支度を済ませないと思いながら、軽石はベッドの上でぼうっとしていた。

 朝は大概、この虚無の時間が生まれることが多かった。食事を済ませないといけないとは思うのだが、なかなかに起き上がることができない。


 そのまま、数分を無駄にしたことに気づき、慌てて軽石は朝食を済ませる。朝はご飯よりもパンを食べることが多かった。バターを塗ったトーストに、飲み物は貰ったリンゴジュースだ。それを腹の中に収めてから、軽石は歯磨きと洗顔を済ませる。


 その後は寝巻から仕事着に着替えるのだが、仕事着と言っても固定の服があるわけではない。人によっては悩むところなのかもしれないが、軽石はあまり服の種類が多くなく、洗濯をしているかどうかで選ぶことが大半だった。

 恋人である恋路こいじ泉太郎せんたろうとのデートの際にも、同じように服装を気にしないためか、恋路にたまにはお洒落をしないのかと言われたことがあるが、お洒落をするにも軽石はファッションの良し悪しが良く分からない。それは難しいと返すことしかできなかった。


 そこから、化粧を始めるのだが、化粧も服装と同じで気にしたことはない。大体十五分ほどで済ませることがほとんどで、それ以上に時間をかけることがないどころか、時間をかけて何をするのか良く分かっていなかった。これも恋路に聞かれたことはあるが、それも似たような言葉を返すだけで、特に変えたことはなかった。

 これで大体の身支度は終わり、後は時間に家を出るだけになったが、その前に軽石は思い出したように取り出した香水を身につけた。恋路からのプレゼントで、不思議な香りだが嫌いではないので、軽石はつけることが多かった。


 それから、軽石は大切に置かれていた眼鏡をかけた。


 普段から眼鏡をかけている軽石だが、実際の視力は別に悪くはない。特別良いわけではないが、眼鏡をかける必要はなく、普段からかけている眼鏡も伊達眼鏡だ。それを不思議に思ったらしく、恋路にどうして眼鏡をかけているのかと聞かれたことがあった。それに対して返答に迷った軽石は、憧れからと答えたことがある。


 そもそも、軽石が眼鏡をかけようと思ったきっかけは、飛鳥あすか静夏しずかに対する憧れだった。仕事を真面目にこなす大人の女性、というわけではない飛鳥だが、他の女性にはない魅力が飛鳥にはあり、それが軽石を強く惹きつけた。

 特に軽石は自分のことを特別なことが何もない人間だと思っていたので、飛鳥のを知った時は強く憧れた。その特別さの一端でも手に入らないかと、飛鳥のことを真似し、その一つが眼鏡だった。


 今も飛鳥に対する軽石の憧れは変わらず、この眼鏡をかけることで、いつもの自分と少し違った自分になれる気がする。それは錯覚かもしれないが、錯覚でもそう思うことで、軽石は仕事の集中することができた。


 とはいえ、ここ最近は他に好きなものができたことで、仕事中の集中力も維持できないことが多かった。つい恋路のことを考えてしまい、仕事中であるにも拘らず、恋路の写真を見てしまう。

 そう考えたら、軽石は自然とスマホを触り、恋路と撮った写真を眺めて、ニンマリと笑った。自分に恋人ができるなどと考えたこともなかったが、いざできると、これだけ幸せな気持ちになるのかと驚くばかりだ。


 もちろん、それで仕事に集中できないのは悪いことと理解しているのだが、その思いとは裏腹に日々恋路のことを考える時間が増えており、軽石はどうしようかと悩むことが多かった。

 それを飛鳥に相談した時のことを思い出し、軽石は今日の日付を確認した。


「あ、今日か…」


 恋路の話を聞いた飛鳥が恋路に興味を懐き、恋路に逢ってみたいと言い出したのだ。軽石としても、憧れの人である飛鳥に恋路を紹介したい気持ちはあったので、そのために逢う日取りを決めたのだが、その日が今日だった。

 飛鳥はどのような反応をするのだろうかと考えながら、軽石はスマホに保存された恋路との写真を見つめる。


 ふと気になり、そこで視線を上げると、画面上の時刻表示が目に入った。

 八時三十五分。家を出なければいけない時間を過ぎており、軽石は慌てて荷物をまとめて、家を飛び出した。

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