五月蝿く聞くより目を光らす(19)
ハエ人間が姿を消した直後、相亀の呼んだ救急車によって、病院に運び込まれた椋居は、何とか一命を取り留めた。
相亀の仙気による応急処置の的確さもそうだが、ハエ人間が移動した際にベンチが吹き飛び、それによって椋居の体勢が大きく崩れ、ハエ人間の一撃を真面に受けることがなかったことも幸いしたらしい。
椋居が助かった。それ自体は良かったことだが、事態はそれだけで終わってくれなかった。
相亀は様々な感情を押し殺し、椋居の運び込まれた病室に入っていく。椋居はベッドの上で身体を起こし、ぼうっと窓の外を眺めているところだった。傷を受けた頭には包帯が巻かれている。
「椋居」
相亀が声をかけると、椋居は振り返って軽く微笑んだ。
「弦次か。弦次は無事だったみたいだな」
原因不明の爆発事故。奇隠が介入した結果、椋居の一件はそういう形で決着がついた。これから、専門家を名乗った奇隠の人間が現場に入り、爆発に適当な理由をつけて、今回の一件は世間的には解決を迎えるらしい。そのこと自体はどうでも良かった。
「その言い方だと聞いたのか?」
椋居は「弦次は」と言った。そこには「自分は無事ではなかったが」という言葉が聞こえないだけで頭につけられている。
相亀の質問を受けた椋居はゆっくりと頷き、歪んだ不格好な笑みを浮かべた。
「また歩けるか、リハビリ次第だってさ」
頭部に負った傷が椋居の命を奪うことはなかったが、椋居の自由を奪うには十分だったようだ。椋居の手には動かすのに影響が出るほどの痺れが残り、下肢に至っては現状、真面に動かすことができないそうだ。
もちろん、怪我を負った直後なので、肉体的ダメージも影響しており、腕の方は回復する見込みがあるそうなのだが、足の方は回復するかどうか怪しいらしい。
可能性としては存在するが、その可能性は限りなく少なく、再び歩けるようになる可能性は十パーセント程度だそうだ。
「困るよな。急に歩けるかどうか分からないって言われても、何も考えられないよ」
ベッドに凭れかかり、相亀から目線を逸らしながら、椋居はそう呟いた。その小さな声を聞き、相亀は後悔や自責の念から歯を食い縛って拳を握り締めた。
「ごめん……」
「何で謝るんだよ?」
椋居が何とか保っているだけの笑顔を浮かべ、相亀を振り返る。謝っている理由を聞かれても、相亀には答えることができないが、それでも謝らずにいられなかった。
「ごめん……」
「だから、謝るなよ。弦次が悪いことなんて一つもないだろう?寧ろ、俺が助かったのは弦次の応急処置が的確だったからって聞いてるぞ?それに感謝することはあっても、お前を責めることはないよ」
椋居がそう言うことは分かっていた。それでも相亀は自分を責めることをやめられなかった。
ハエ人間の姿を発見してから、椋居が攻撃されるまでの速度を考えると、それを相亀に止められたとは思っていない。それほどまでに相亀は驕っていない。
だが、そもそも椋居があの公園に行かないように、椋居を振り切ることはできたはずだ。最初から幸善の家に椋居も向かっていなかったら、椋居が巻き込まれることはなく、椋居が怪我を負うこともなかった。
これは自分の招いた失態だ。その思いをどうしても消すことができず、相亀は謝罪の言葉を止められなかった。椋居が戸惑うと分かっていても、言わないことはできなかった。
「まあ、怪我が治ったら、リハビリ頑張るよ。可能性があるなら挑まない理由はないからな」
「そう…だな……」
「ちゃんと見舞いには来てくれよ?後、緋伊香に変な男が近づかないようにお前が代わりに見張ってくれ」
「分かった……」
相亀の返答は予想外だったのか、椋居は少し驚いた顔をしてから、苦笑いを浮かべていた。
「お前が何を思っているのか分からないけど、あんまり自分を責めるなよ。俺は気にして……いや、違うな。お前がそういう顔してるの見てると、気にするからしないでくれよ」
椋居にそう言われ、相亀は小さく頷いた。
「次から努力する」
「そうしてくれ」
相亀はまた来ることを伝え、椋居の病室を後にする。椋居に言われたことを頭の中に思い浮かべ、今の考えを何とか頭の中から消そうと思った。
今はもっと自分にできることを考えるべきだ。
そう考えた時、相亀の頭の中に浮かんだのは、ハエ人間の姿だった。
ハエ人間は死んでいない。逃走しただけで確実に生きている。もしも、あのハエ人間がまた現れたら、椋居のような犠牲者が増えるかもしれない。そうなった時に味わう気持ちが何を生み出すのか、相亀はずっと見てきた。
それを防ぐために相亀にできることは一つしかない。
ハエ人間は自分がぶっ飛ばす。
相亀はその覚悟を決めて、椋居の入院する病院を後にした。
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