五月蝿く聞くより目を光らす(18)
相亀は把握していないことだったが、ノワールは妖術を使用できた。幸善と同じように風を起こすものなのだが、起こせる風はそよ風程度でしかなく、基本的に戦闘で活用されることのない妖術だ。
それがノワールの意識とは関係なく発動したようだ。そよ風が起きたことに、起こした当人であるノワールも驚いていた。
その原因は恐らく、妖気が妖怪という存在に強く結びついているからだ。
仙人も多くの仙気を消耗することで、一時的に動けなくなることがあるのだが、妖怪の妖気はその比ではなく、多く消耗するとその妖怪の存在自体が消えてしまうことがある。
それは肉体が存在し、そこに仙気が宿っている人間と違い、妖怪は肉体そのものを妖気が構成しているからだ。妖気の消耗は肉を擦り減らしていることに等しく、肉体の維持に必要な妖気すら消耗すると、肉片も残ることなく消滅することになる。
その結びつきの高さが故に妖気は妖怪の意識や感情にも影響されるようだ。
相亀がハエ人間の攻撃を受け、相亀どころか、自身の生命すら怪しくなったことで、ノワールの中で死に対する恐怖が芽生えた。
それに僅かばかりでも抵抗しようと、ノワールの身体が無意識の裡に起こしたものが妖術によるそよ風だった。相亀の頬を優しく撫で、土煙を僅かに動かすだけだったが、それしかできなかったのだから仕方なかった。
頬を優しく撫でたそよ風の存在に相亀はぽかんとし、そのそよ風を起こした当人であるノワールもぽかんとした。この瀬戸際に風一つ吹いても仕方がない。
そう思った二人の眼前にハエ人間の右拳が落ちてきた。地面と強くぶつかり、地面に罅を入れるそれを見て、相亀とノワールは思わず顔を引き攣らせた。
危ない。二人は揃って同じことを思ってから、その光景に疑問を懐いた。
相亀もノワールも無防備でしかなかった。たった一発の拳で終わる状況で、その拳を叩き込む隙しかなかった。
事実、ハエ人間は拳を叩き込もうとしていたし、それが当たっていたら相亀もノワールも終わっていたはずだ。
だが、ハエ人間はその一撃を相亀達ではなく、地面にぶつけた。
態と外した。そう考えるには状況があまりに奇妙過ぎる。ここで狙いを外すくらいなら、その前に外してもいい状況はいくつもあったはずだ。
外してしまった。そう置き換えると、そこにハエ人間の狙いが外れるだけの理由があったことになる。
今、起きたことと言えば――そこまで思考し、相亀とノワールは同じ結論に達したのか、同じタイミングで顔を見合わせた。
ハエ人間が土煙を生み出し、それに覆われたことで相亀は視界の悪さを実感した。同時にその中でハエ人間が相亀の位置を特定していたことに疑問を覚えたが、それは相亀が動いていなかったことが原因だと考えていた。
しかし、相亀が移動しても、ハエ人間は相亀の位置を特定してきた。その理由が分からなかったが、さっき起きたことと合わせれば、そこにも説明がつく。
ハエ人間は土煙の動きを察知し、そこから相亀の位置を特定していた。
だから、ノワールのそよ風が土煙を動かしたことに反応し、相亀達が移動したと勘違いし、相亀達の前方に攻撃を放ってきた。
それだけ分かれば、相亀達のすることは一つしかなかった。相亀はノワールにわざわざ語ることもなく、ノワールに視線を送ると、ノワールはそれだけで理解したように、小さく頭を動かした。
ノワールが相亀の肩から飛び降り、相亀から少し離れた位置に移動した。その様子を見ながら、相亀は両腕を軽く上げてみる。両腕の調子は万全とは言えない。
それなら――そう相亀が思った直後、ノワールの前方で空気が揺れた。ノワールの妖術によるそよ風が起きたようだ。
その土煙の揺れに反応し、ハエ人間の姿が相亀の眼前に現れ、ノワールの前方に右拳を落とした。
それを視界に捉えた瞬間、相亀は走り出し、ハエ人間の前方で大きく踏み込んだ。両腕が使えないなら、足に頼るしかない。全力で身体を回転させ、相亀は勢い良く足を振り切る。
それがハエ人間の肘に直撃した。鈍い音を鳴らし、腕の関節があり得ない方向に曲がる。
その直後、ハエ人間の口から音が漏れ出し、大きく逃げるように背後に飛び退いた。
左腕はハエ人間が自身で千切り取り、右腕は相亀が蹴り飛ばして折った。これで両腕は使えない。
仮にハエ人間の動きが追えないほどに速くても、攻撃手段の少なさは明確な弱点だ。
これで状況は逆転した。相亀は両腕の痺れが少しずつ減っていくことを感じながら、これなら勝てると考えていた。
その時、ハエ人間が小さな唸り声のような音を漏らしながら、唐突に動きを止めた。その変化に何かの前触れかと相亀は警戒する。
直後、ハエ人間が再び姿を消し、相亀は周囲に目を向けた。まだやるのかと思いながら、相亀はハエ人間の動きを追おうとするが、そこで違和感に気づく。
周囲の土煙が増えるどころか、少しずつ風によって掻き消えている。耳を澄ませてみるが、ハエ人間から聞こえてくる羽音も聞こえない。
(まさか、逃げた……?)
そう思った相亀が確認しようと、ノワールに目を向けてみると、ノワールはそっぽを向いて、さっきのハエ人間のように固まっている最中だった。
その視線を追いかけるように、相亀も向いている方向を見てみる。
(シャボン玉?)
それなりの大きさのシャボン玉がいくつか、ふわふわと上空に昇っている様子を見つけ、相亀は眉を顰める。子供が遊んでいるようだが、それは現状に関係ない。
「おい、あのハエはまだいるか?」
そう相亀が声をかけると、ノワールはゆっくりと振り返ってから、ワンと一度吠え、椋居のいる方向に走り出した。
その行動から意味を汲み取った相亀は、急いでスマホを取り出した。
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