熊は風の始まりを語る(10)

 開店から閉店まで、一週間もの間、パン屋の店先で花束を持ち、いつ来るかも分からない相手を待ち続けた。それも恋焦がれた相手とかではなく、以前に一度逢っただけで、その時には自分から距離を離すような態度を取った相手だ。その相手に謝罪するためにひたすら待った。


 その常軌を逸した行動に驚く久遠とは対照的に、愚者は笑顔で花束を差し出してきた。

 そこまで含めて、久遠は言葉を探すのだが、その言葉が見つからないまま、取り敢えず、差し出された花束を受け取る。


「君の好みが分からないから、店の人に選んでもらったんだよ。嫌いなものでないならいいけど」

「う、うん…大丈夫…いや、そもそも、どうして花を?」


 久遠の印象では愚者が花束を持ってくることは絶対になかった。ないと思ったから皇帝に言って、久遠なりのもう逢わないという意思を伝えたつもりだった。


 なのに、愚者は花束と一緒に異常な執念を携えて、久遠の前に再び現れた。


 それが異様で、奇怪で、久遠には納得のできないことだった。


「どうして?君が言ったから」

「いや、そうじゃなくて…あの時の反応的に絶対に持ってこないと思っていたのに、どうして持ってきたの?」

「それは…」


 愚者は考えるように視線を逸らしてから、こう口にした。


「君は毎日ずっと続いている習慣ってある?」

「……ん?はあ?」

「習慣。何でもいいよ。何となく、ダラダラと毎日続けているけど、別に明日…いや、今日にだってやめたっていいって思える習慣。恥ずかしかったら、どういうものか言わないでいいから、あるかどうか答えてよ」

「ま、まあ、あるわね。靴を履く時は絶対に右足からとか、パンを食べる時、最初の一口は絶対に手で千切って食べるとか。良く考えたら、何でしているのか分からないけど、そうしないと気持ち悪いから、何となくしていることはそれなりに」

「それがね。普通に意識することなく、ずっとそれが当たり前だからという理由だけで続いていると別にいいんだけど、ある日、それを意識して、明日もそれを繰り返さないといけないと思ったら、それが少しずつ義務みたいになって辛くならない?」


 久遠は頭の中でイメージしようとしたが、久遠の中で義務のように感じる習慣は一つもない。


 そう思ってから、一つだけ似たことを思い出し、納得したように頷いた。少しケースが違う話だとは思うのだが、愚者の言わんとするところは分かる。


「そうしないといけないと思うと、窮屈に感じることはあるわよね」

「そう。だけど、やめるって簡単じゃないんだよ。最近できた習慣なら未だしも、ずっと続いてきた習慣なら、それを生活から取り除くのって結構大変なんだ。あっても困らないものを日常からなくすことって、自分の中の平穏な場所を少し崩すようで、覚悟がいるんだよね。それが他の人から望まれていないことなら、より一層、深い理由が必要になってくる。重い腰を上げる理由がね」


 愚者の話が当初の質問からあまりに逸れているのではないかと、久遠は次第に不安になっていた。


 愚者の話自体は久遠にも理解できた。久遠も似た気持ちはあるから、その言いたいことをイメージすることは簡単だ。


 だが、そこには久遠とは完璧に違う一つの前提が含まれていて、そこがどうしても久遠は受け入れられなかった。


「その理由をね。探しているんだよ。それを見つけたくて、君ともう一度、話してみようと思ったんだ。いや、違うね。前回は何も話していなかったから」


 その柔らかな愚者の笑みに、久遠は自然と眉を顰めていた。


「何それ?」

「分からなかった?」

「違う。分かったとか、分からなかったとかじゃなくて、それって自由に決めていい人の発想でしょう?習慣とか、そういうものでさえ、決められてしまって、そこに縛られている人だっているのに、その理由がないから動きたくないとか、そういう自分勝手は人のいないところでしてよ」


 久遠が不機嫌さを剥き出しにして、愚者を正面から睨みつけていることに、愚者は驚いているようだった。


「何かやめたいことがあるの?」

「ない…わけじゃない。でも、そういう話じゃないから」

「君にも何かがあるの?」

「ない人なんて、いないでしょう?」


 貴方がそうであるように、と久遠は付け加えようとしたが、その前に愚者が心底驚いた顔をしていて、久遠は言葉を飲み込んだ。


「ああ、そうだよね。そういえば、何でなんだろうね?」

「何が?」

「ありがとう。当たり前なのに気づかなかったよ」

「だから、何が?」

「また話をしたいんだけど、ここで待っていたら逢えるかな?」

「ちょっと待って。勝手に話が進んでる」


 困惑する久遠とは対照的に、愚者は何かに気づいたように顔を明るくして、一方的な約束を取りつけて帰りかけていた。


「いや、ちょっと待って!分かったから!店の前で待つことはやめて。連絡取れる手段を作りましょう」


 久遠はそう言って、愚者の奇行を封じることが精一杯だった。


 そして、その時の鬱憤を溜め込んだ末の久遠の一言が、皇帝に向けられることになる。


「ちょっと!?あいつ何なの!?」

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