悪魔が来りて梟を欺く(15)
亜麻の毒はじんわりと幸善の身体を蝕んでいた。気分の悪さに視界の悪さが重なり、幸善の体調は急速に悪化していく。ノワールの心配した声が耳元で聞こえるが、その声も微かにエコーがかかっているように聞こえる。
「大丈夫か!?」
「ああ…大丈夫だ…」
ノワールの焦った声に幸善はそう返した。
実際、気分の悪さや視界の悪さが目立つ一方で、身体は未だ自由に動いていた。もちろん、気分が悪い段階で激しい動きはできなくなっているが、気を動かすことや風を起こすことなら問題はない。視界の悪さもぼやけて見える程度で、日常生活なら眼鏡がいらないくらいの不良さだ。戦えないわけではなかった。
一番の問題と言えば、それらによって判断能力が低下していることだが、複雑な攻撃が予想される広い空間ならまだしも、今は室内という狭い空間の中で戦っている。その部分も大きな影響はないだろうと幸善は思えた。
「苦しそうだね。まあ、私の毒は簡単に殺せるほど強くないけど、死ねないわけじゃないから、安心していいよ。その苦しみもその内消えるから」
そう話しながら、気がついた時には亜麻の爪が伸びていた。その仕組みは分からないが、その爪の長さや毒、その前に放っていた電気の全てが妖術と考えていいだろう。
複数の妖術を扱う。そんな話を聞いたことはないが、聞いたことがないだけで、いないと聞いたわけでもない。あり得る話なら、そこに驚くことはない。
――と幸善は思っていたのだが、ノワールは違っていた。
「あいつの妖術はかなり特殊だぞ…!?まだ何かあるかもしれない…!?気をつけろ…!!」
「はあはあ…どういうことだ…?」
「妖術っていうのは妖気の力としての現れだ。妖気の性質によって、使える妖術は変わってくる」
「つまり…?」
「つまり、妖術っていうのは妖怪一体につき一つだ。これが原則で、他の妖術は使えない」
「ちょっと待て…あいつの妖術は一つに見えないぞ…?」
「俺にも見えない。だが、いくら
「はあ…?どういうことだよ…?」
「例えば、魚は能力的に泳ぐことができるが、個体によっては体内に毒を持っていたり、電気を持っていたりするだろう?そういう能力の個体差を一人で持っている可能性がある」
「つまり…?」
「電気、長い爪、毒以外の力があるかもしれない」
「ということは…?」
「勝ち目が薄い」
「なるほど…死ねってことか」
「いや、俺は死んでも守れってことだ」
ノワールに毒以上の絶望を与えてもらったところで、幸善は左手の感覚を確かめる。ノワールは勝ち目が薄いと言っていたが、勝ち目が薄いのなら、勝ちにこだわる必要もない。仲後の救出を最優先に定め、それができれば時間稼ぎをするだけだ。
風が起こせるなら、それくらいのことは何とかできる―――そう思った瞬間、幸善の眼前に亜麻の歪んだ笑みがあった。亜麻の爪が振るわれ、幸善は咄嗟にその爪を躱す。さっきの変化から、あの爪を受けたことで、幸善の体内に毒が入ったはずだ。現状は毒の影響を強く受け切っていないが、この先も同じとは限らない。爪を掠ることも許されないだろう。
しかし、幸いなことと言うべきなのか、亜麻の動きは以前遭った人型に比べると、やや緩慢に思えた。もちろん、常人と比べると十分に速いのだが、仙気を活用できる幸善からすると、避けることには困らない速度で、爪が掠れる気配はない。
それどころか、攻撃にも転じることができそうで、幸善は左手を突き出し、亜麻に向かって風を起こそうとした。
その時、福郎が叫んだ。
「待ってくれ!?家が壊れる!?」
その声に反応し、幸善は左手を引っ込めていた。その隙を狙ったように、亜麻の爪が向かってくる。その攻撃を幸善は寸前で躱していた。ただし、完璧ではなく、髪の毛の数本が持っていかれる。
「痛っ…!?ちょっとブチって言った…」
「禿げることより、どうするか考えろ…!?ここだと満足に風が使えないぞ…!?」
ノワールが言う通り、それは大きな問題だった。幸善の風は仙術の名に恥じない強さだが、それ故にコントロールが効かないと、必要以上の破壊をもたらしてしまう。今回の場合はその部分が露骨に邪魔をしていた。
福郎に目をやるが、福郎は仲後を見るばかりで、戦いに参加できそうな気配はない。そもそも、福郎に何ができるか分からない以上、福郎に期待するべきではないだろう。
自力でこの場を脱する方法を考えないといけない。
「何だか知らないが、あの年寄りが狙われていないことは良かったな…」
「確かにそうだが、仲後さんがあそこに居続ける限り、俺はその可能性も考えないといけない…そのことを考えて、敢えて何もしていない可能性は十分にある…」
「意識を逸らしているのか…?」
「かもしれない…」
「だとしたら、全部かもしれないぞ?」
「何が…?」
「妖術だ。全ての力を見せて、それで対応できないと判断したから、保険として置いているのかもしれない」
「だとしても、打開策には繋がらない…」
「いや、それは相手も同じことだ」
言われて幸善は気がついた。毒を受けてから、状況が一切変わっていない。
そもそも、最初の電気は全て風で打ち消せた。爪も毒を受けた身体で躱すことに困っていないし、受けた毒も身体に多少の不自由さを残しているが、それも少しずつ慣れてきている。
状況の打破に困っているのは相手も同じこと――そう思ったら、途端に幸善の気分が軽くなった。なくなっていないが、体内の毒がなくなったようにも感じられる。
少なくとも、戦車に感じられた絶望感はない。戦車よりは確実に弱い。その思いが少しずつ強くなり、幸善は小さく笑みを浮かべながら、拳を握り締めた。
その時だった。唐突に疑問が降ってきた。
(風は左手でしか起こしていないが、本当に左手でしか起こせないのか――?)
その一つの小さな疑問が、状況を変える大きなきっかけになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます