憧れよりも恋を重視する(13)

 相亀達が羽計の自宅に到着した同時刻、軽石は公園内にて時計を確認していた。


 軽石の婚約者である恋路こいじ泉太郎せんたろうが本日、Q支部を訪れることになっているのだが、その前に済ませたい用事があるそうで、一緒に公園に向かうのではなく、そこで合流する約束になっていた。


 そろそろ、恋路と約束した時間だと思いながら、スマホの画面を眺めた軽石が周囲に目を向ける。少しでも遅れるとしたら、恋路はいつも決まって連絡を入れてくれる。それがないということはそろそろ顔を見せるはずだが、周囲に姿は見えない。


 このまま遅れたりしないだろうか、と一瞬、軽石が不安になったところで、遠くの方に特徴的な赤い頭が見えた。帽子を被っている風でもなく、赤い頭をした人物は他にあまりいない。


 軽石がその人に向かって手を振ると、向こうも軽石に気づいたようで、軽く手を振りながら駆けてきた。

 良かった。ちゃんと遅れずに来てくれた。そう思う軽石の前で、少し息を切らした恋路が立ち止まる。


「ごめんね。待った?」

「いや、大丈夫だよ。ちゃんと時間に間に合ってる」

「少し手間取って焦ったよ」


 そう言いながら、軽く笑う恋路の手を取ろうとして、軽石は普段、恋路から漂わない匂いの存在に気づいた。何とも表現の難しい独特な香りだ。


「あれ?香水つけた?」

「ああ、分かる?そこまで匂いの強くない物を選んだつもりなんだけど」

「珍しい。香水をつけているところなんて見たよ」

「何かある時にはつけるんだよ。とかね」

「そうなんだ」

「それよりも行こうか。方向はどっち?」

「ああ、こっちだよ」


 軽石が恋路の手を引いて、二人は並んで歩き始めた。公園内を移動して、向かう先は開かずのトイレとして有名なQ支部の入口だ。


「少し緊張するな」


 そのように呟く恋路を笑顔で落ちつかせながら、軽石はさっきの恋路の言葉を思い出し、不意に疑問を懐いた。


(あれ?大事な勝負前って、はつけてたっけ?)


 さっきも言ったことだが、軽石は恋路が香水をつけているところを初めて見た。以前につけている姿を見た記憶も、匂いを感じた記憶もない。


 プロポーズはその後の人生を左右するほどの大きな勝負事のはずだ。それを大事な勝負と思わなかったはずもないのだから、大事な勝負前に香水をつけるというからには、その時も香水をつけることが普通だろう。


 しかし、その時に恋路が香水をつけていた覚えは軽石になかった。


 もちろん、軽石もプロポーズされ、かなり動揺していた。匂いに気づかなかった可能性や、匂いに気づいても忘れてしまった可能性がある。


 一概に疑うものでもない。自分が忘れているだけだ。そう思うことにして、軽石は開かずのトイレの前まで恋路を案内した。


「ここって…本当にここが職場?」


 恋路は心底不思議そうにトイレを指差していた。その前で軽石は軽く頷き、そのトイレに近づいていく。


「ちょっと開けるのにコツがいるんだよ」


 そう言ってから、軽石はドアノブを掴んで、その扉をゆっくりと開いた。その光景に恋路は驚きの目を向けている。


「凄い。ここは開かないって聞いていたのに」


 軽石が促すと、恋路はゆっくりと歩いて、その扉の中に入っていく。軽石がその後ろをついて入ろうとすると、恋路が手を伸ばし、扉を支えてきた。


「はい。入って」

「ありがとう」


 軽石は恋路に礼を言いながら、階段を少し下ると、背後で恋路がゆっくりと扉を閉めている。


「この奥にあるエレベーターに入るとね。職場につくんだよ」

「へぇー、厳重なんだね」


 軽石と恋路がエレベーターの前まで移動すると、その扉がゆっくりと開き、恋路がエレベーターを手で押さえた。軽石はそれにも礼を言いながら、先に中に入ると、恋路が遅れてゆっくりとエレベーターに乗り込んでくる。


 それから、ゆっくりと扉が開いて、軽石は恋路の肩を叩く。


「これで振り返って」

「振り返る?」


 そう言って首を傾げながら、ゆっくりと振り返った恋路がそこに広がる廊下に気づいた。


「へぇー、こうやって入るんだ」

「うん、そう」


 子供のようにはしゃぐ恋路を見ながら、微笑んでいた軽石だが、ふと何か違和感に気づく。


(あれ?何か、さっきから言い方が変なような…?)


 扉とエレベーターが続く状況を厳重と表現したり、到着したQ支部を見た最初の感想がこうやって入るのかというものだったり、軽石は恋路の言葉がさっきから少しずれている気がしてくる。


 特に二つ目。こうやって入るのか、という感想はだ。


 そう思った瞬間、軽石は恋路の近くから、さっき嗅いだ匂いとは違う匂いが漂っていることに気づいた。それはこれまでに嗅いだことのないだった。

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