断じて行えば鬼神も之を避く(8)

 一言で言うなら、気合いだった。積み重なった苛立ちが僅かに残った意識を繋ぎ止めて、ディールは苦しみや痛みの中を突っ切るだけの力を得ていた。拳を振り切る動きも角度も、全てディールのこれまでの経験が生み出した軌跡だ。


 相手の顔を殴るとか、この軌道でないとダメージが出ないとか、そういう考えは特になく、ただ殴るという行為に特化した時、ディールの身体はひたすらに最善を選択するようにできていた。


 戦車の手を押し込みながら、戦車の顔面に拳を叩き込む。その時に至っても、ディールの拳に手応えはあまりなかった。うまく動き切らない身体が何かを殴ったという事実だけ伝えてくれた。


 殴れたのか、という考えが満足感を生みそうになって、ディールは吸い切れない息を無理矢理に吸い込む。焼けた肺では酸素の大半が吸い込めず、痛みだけを生んでいくが、それでも、ディールの意識を保つくらいの支えにはなってくれていた。


 戦車はディールの拳に押し出され、そのままの勢いで床に叩きつけられていた。ほとんど抵抗を見せることなく、背後に吹き飛んだ身体が跳ねて、戦車はボールのように転がっていく。


 その様子を見ながら、ディールは何となく、今の攻撃が大したダメージになっていないことを悟っていた。手応えのなさはディールの感覚の話ではなく、実際に戦車の芯まで届いていなかったから生まれたものだろう。


 そう思えるほどに、転がる戦車の身体は軽く見えた。もしもディールが重い一撃を叩き込んで、戦車を床に沈められたのなら、きっと今の一撃で跳ねることはなかったはずだ。張りつくように地面に倒れ込んで、壊れた身体を撒き散らしていたかもしれない。


 そうなっていないのは、そこまでの重さがなかったからだ。苦しみと痛みの中で、ただ苛立ちだけを乗せた拳では、意識や命に届くだけの一撃とならなかったらしい。


 それもそうか、とこれまでのことを思えば、十分に納得できる結果に、ディールはあまり大きな焦りも落胆も懐いていなかった。なるべくしてなった結果だ。ダメージの多さは問題ではない。


 それ以上に大切なことは、ディールの軽い拳では戦車に一切の傷を作れていない事実だ。ディールの拳が軽かったことは認めるが、ディールの一撃は加減したものではなく、重さを乗せ切れなかったものだ。


 いくら軽いとはいえ、並の人間なら殴殺できるくらいの威力は乗せていた。それを受けた戦車が無傷であるのは、単純にディールの一撃が弱かったからだけではない。


 そのことがディールの中で未だ消えようとしない好奇心を擽った。


 ディールの拳は一度振るえば、大抵のものは粉砕する。生物はもちろんのこと、ゲームセンターに置いてあるパンチングマシーンは一発で吹き飛び、いらなくなったビルの解体も一発、二発で完了するほどだ。


 それだけの力があることで、ディールと真正面から殴り合える相手はこれまでに一人もいなかった。大抵が他の手段を用い、ディールと真正面からぶつからない方法を選んでいた。


 それが戦車は恐らく違う。最初に受けた印象から違わず、戦車はきっとディールの拳を受け止められるだけの肉体を有している。


 そのことに確信を得たことで、尚更、ディールの興味は強くなり、同時に落胆も濃くなっていた。それだけの力があるのなら、それを真正面から振るうことだけを考えればいいはずだ。


 それがどれだけ非効率的だろうと、どれだけ愚かな選択であろうと、そこに絶対的な美学が存在するなら、それは突き詰めるべきだ。


 そう考えるディールからすれば、鬼火などという小細工に頼っている現状が悲しくて仕方なかった。本気で殴り合うからこそ行ける高みに、きっと戦車も行けるはずなのに、それを逃がしている現状が残念で仕方なかった。


 やはり、引き戻さないといけない。肉体と肉体がぶつかり合い、それ以外の何もない完全たる世界に戦車を連れてこないといけない。


 ゆっくりと起き上がろうとする戦車を見下ろして、ディールはズタボロの身体に力を込める。それまで抱えていた苦しみや痛みは湧いてきた高揚感が包み込み、ディールは不自然なほどにテンションを上げていた。


 恐らく、もうすぐ死ぬ。そのような限界に近しい感覚も味わいながら、ディールは戦車を睨みつける。


 さあ、こっちに来い。戦車に結びつけられた鎖を引っ張るようにディールは拳を握る。その前で起き上がった戦車が表情を変えることなく、さも当然のように鬼火を生む姿を見ながら、ディールは大きく息を吐き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る