四人目は恋の匂いに走り出す(3)

 下校途中も我妻と愛香を近づける作戦会議を繰り広げる東雲と久世に、結局、幸善は何も言えないまま家に到着していた。その言葉を言うとしたら、それは我妻本人からが一番いいはずで、そのことを伝えないで問題点を伝えることができない以上はそれも仕方がない。

 仕方がないとは思うのだが、何とも悩ましいことに幸善が頭を抱えていると、ノワールが怪訝げに見てきた。


「どうしたんだ?左腕の痛みが頭に移ったか?」

「どんな理論だよ…?」

「あ、おかえり」


 幸善が玄関から自分の部屋に移動しようとしながら、ノワールと会話していると、頼堂千幸ちゆきが顔を見せてきた。ノワールと会話する幸善の声が聞こえていたのか、怪訝げに幸善を見ながら、「今、誰かと会話していなかった?」と聞いてくる。


「いや、してないけど…?」

「そう?まあ、そうよね?」


 そう言いながら、千幸の目がノワールに移る。


「そうだ。幸善。ノワールの散歩に行ってきて」

「え?俺が?千明ちあきは?」

「千明は今日帰りが遅くなるんだって。たまにはいいでしょう?」


 幸善がノワールに目を向けると、露骨に嫌そうな顔をしたノワールと目が合う。幸善は別にノワールの散歩くらいなら、特にやることもないので問題ないのだが、明らかにノワールは幸善が連れていくことに不満そうだ。


 その様子を見ると、ここは千幸に任せた方がノワールは喜ぶだろうと幸善は思った。


「オッケー。分かった」


 だからこそ、引き受けてやった。幸善がほくそ笑みながらノワールを見ると、ノワールは明らかに怒った表情をしていた。その表情に満足した幸善がリードを手に取り、ノワールにつけていく。ノワールが妖怪であり、意思疎通ができる幸善からすると、このリードは必要ないと思うが、リードは実際に必要かどうかよりも、それがついていることで安全だと周囲に知らせるために必要だ。そのことを分かっているのかノワールも大人しく、リードを首につけられている。


「じゃあ、行ってきます」


 千幸に声をかけ、幸善はノワールと一緒に家を出る。そこで開口一番、ノワールが不満を漏らしていた。


「断れよ」

「だが断る」

「意味分からん」


 幸善とノワールはほとんど無言で歩いていたが、たまにノワールが質問をしてきたので、その質問に幸善が答える場面はあった。その内容は幸善の怪我の原因になった仕事のことや、最近の仙技の特訓のことで、ノワールなりに気を遣って質問をしていることが分かった。


「お前って意外と空気を読むタイプ?」


 率直に思ったことを幸善が口に出すと、ニヤリと笑ったノワールが振り返る。


「風を起こせるしな」

「赤ん坊の吐息みたいな風だけどな」


 そんな会話を繰り広げながら、幸善とノワールは歩いていたのだが、途中で不意にノワールが立ち止まる場所があった。そこは幸善達の家の近くにある公園で、幸善も子供の頃に遊んだ覚えのある場所だ。ただその頃と違い、遊具の一部がなくなっていて、今ではブランコとすべり台くらいしかない。


「千明と散歩する時はここに立ち寄るんだ」

「へえー。ブランコするのか?」

「んなわけあるか。ここで走り回ったら、犬らしいだろう?」

「そんな計算高い犬がいて堪るものか」


 幸善が奇隠で仙技の特訓をしている間の頼堂千明とノワールの姿を想像しながら、幸善は公園の中に踏み入れていた。家では千明ともノワールとも顔を合わせるが、そういった話は意外としていなかったと幸善は気づく。

 愛香のこともそうだが、幸善は奇隠での仕事に集中するあまり、それまでの自分の日常だった部分で何が起きているのか、ちゃんと把握できていなかった。そうして、視野が狭くなるところが自分の悪いところなのかもしれないと思うと、この前の葉様のことも悪く言えないかもしれないと幸善は考え出す。


「珍しい…誰かいるな…」


 不意にノワールが呟いたので幸善が顔を上げると、ブランコに座る男性の姿を見つけた。二十代後半か三十代か、具体的な年齢は分からないが、少なくとも幸善より十歳は年上に見える男性が、ブランコに座ったままスマートフォンを弄っている。


 何をしているのだろうかと思いながら、幸善とノワールが近づいていくと、その男性が顔を上げ、幸善を見てからノワールに目を移していた。その直後、表情が笑顔に変わる。


「こんにちは」

「こんにちは」


 挨拶されたので挨拶を返している間に、男は立ち上がってノワールに近づいてきていた。


「触ってもいいかな?」

「え?あ、はい。大丈夫ですよ」


 本物の犬のように鼻をピクピクと動かすノワールは、男が手を伸ばしても気にすることなく撫でられていた。流石に幸善のような態度は取らないかと思いつつ、幸善は笑顔の男に目を向ける。


「犬が好きなんですか?」

「あー…まあ、好かれないんだけどね」

「好かれない?犬に?」

「そう。犬っていうか、動物全般かな。極端に嫌われるというか。そういう質なんだ」


 何とも可哀相な人だと幸善が同情していると、ノワールを撫でていた男が立ち上がり、今度は幸善を見てくる。


「君はこの近くの人?」

「ああ、はい。そうです」

「なら、この子とは今日だけじゃないかもしれないな。俺が撫でられる犬は珍しいから」


 そう言いつつ、男が思い出したように懐に手を伸ばしていた。そこから、小さな紙を一枚取り出し、幸善に渡してくる。


「これ、俺の名刺。かおるって言います」

「あ、どうも」


 受け取った名刺を見てみると、薫という名前の他にフリーライターと書かれている。その見慣れない職業に幸善はつい呟いてしまう。


「フリーライター?」

「そう。基本的に雑誌に載る記事を書いているんだ。今日はその取材もあって、ここに来たんだよ」

「それじゃあ、もうここには?」

「いや、まだしばらく来ると思うよ。だから、またこの子に逢えることを祈っておかないと」


 薫が再びノワールを撫で始める。苗字しか書かれていない名刺は珍しいと思ったが、フリーライターというからにはペンネームなのかもしれないな、と思いながら、幸善は名刺を懐に仕舞う。


「そうだ。俺も一応、頼堂幸善って言います。こいつはノワール」

「頼堂君か。分かった。覚えておこう」


 そう言って、最後にもう一度だけノワールの頭を撫でてから、薫は立ち上がっていた。


「じゃあ、俺はそろそろ行くから。またここで逢えることを祈ってるよ」

「そう、ですね…」


 普段は千明が散歩しているので、また逢えるかは分からないが、そのことを言うのも何だと思ったので、幸善は黙っておくことにする。


 薫が幸善とノワールの横を通りすぎ、さっき幸善達が入ってきた公園の入口に向かって歩いていく。その途中、ちょうど薫が幸善の隣を通りすぎたところで、幸善はつい鼻を動かしていた。


(あれ?何だろう、この匂い?)


 独特な香りを鼻孔に感じつつ、幸善は薫が立ち去る姿を見送る。その直後、ノワールが嫌そうに口を開いていた。


「撫で方が下手だ」

「それはしょうがないだろう。撫でられる犬は珍しいって言ってたし」


 ノワールの言葉に苦笑しながら、幸善はノワールの散歩を再開する。その途中、さっきの公園でのやり取りを思い出し、幸善は一つ疑問を懐いていた。


(何で滅多に撫でられないのに、ノワールのことを普通に撫でに来たんだ?)


 もう少し、恐る恐る手を伸ばしてきそうなものだが、と幸善は考えてみるが、あまり大した疑問でもなかったため、余程の犬好きだったのかと適当な答えを出していた。

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