熊は風の始まりを語る(1)

 踏み込んだその場所で足を揃え、頼堂らいどう幸善ゆきよしはきょとんとした。感覚的には骨組みの内側を大きく跨いだだけのようだ。特に変化は見られない。


「え?これ、移動しました?」


 一緒に骨組みの内側を通った御柱みはしら新月しんげつを見ながら、困惑を隠すことなく幸善は疑問を口にした。その言葉を聞いた御柱が顎をくいと動かし、部屋の中に唯一見られる扉付近を示す。

 その動きに促され、視線を動かしたところで、幸善はようやく気づいた。


「あれ?ラスさん?」


 さっきまでそこに立っていたはずのL・S・ダーカーが姿を消していた。


 手を振るダーカーに見送られ、骨組みの内側を跨いだ時間は、ほんの一秒にも満たない短さだ。その一瞬で部屋から抜け出すことは、流石のダーカーでもできないだろう。


「本当に移動したんだ…」


 その光景にようやく幸善は実感し、足元を確認する。Q支部の中に入る時もそうなのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、一切の違和感もなく、移動することができるのかと幸善は驚く。


 この仕組みは何度もQ支部で触れているのだが、未だに分からないことの一つだ。

 ただ似たようなことは日常の中でも多くあるので、その仕組みを詳しく考えようとは思えない。


 それよりも、今は何の違和感もなく、今も立っていることの方が気になっていた。


「あれ?本部って宇宙にあるっていう話ですよね?特に何も変わってないんですけど、これって大丈夫ですか?」

「恐らく、この部屋の中は重力が働いているのだろう。そうしないと、移動した際の変化が大きく、身体への影響が激し過ぎる。いくら仙人でも応えるはずだ」

「ああ、そういうことなんですかね?」

「実際、この部屋の重力はさっきまでよりも軽くなっている。身体の軽さに気づかないか?」

「え?本当ですか?」


 そう言われ、幸善は軽く足を持ち上げてみた。

 感覚的には特に変化が見られない。


「本当に軽くなってますか?」

「跳んでみたら分かる」


 半信半疑ながらも、幸善は試しに下肢に力を入れて、軽く跳躍してみた。本当に軽く、十センチか二十センチほど浮かぶ跳び方だ。


 それで幸善は一メートル近く浮かび、少しゆっくりと着地した。


「うわっ!?ビックリした!?え?仙気使ってました?」

「知らん。自分のことを人に聞くな」


 あまりの高さに驚き、つい質問してしまったが、今の跳躍に仙気はもちろん使っていなかった。軽く縄跳びでも跳ぶように跳んだつもりだ。

 それが今の高さを出したということは本当に軽くなっているのだろう。


「というよりも、立っていて気づかないのか…」

「そんなに違うんですね。全く気づきませんでした」


 強いて言うなら、幸善はちょっと体調が良くなったようには感じていた。

 ただそれくらいの違いで、自身の身体が重くなったとか、軽くなったとか、そういう違いは分からない。


 幸善は違いの分からない男だ。


「恐らく、部屋の外は重力がもっと弱いか。廊下なら、無重力状態の可能性もある。教わったことは覚えているな?体勢を崩さないように気をつけろ」


 ダーカーとの訓練を思い出し、幸善は頷いた。


 部屋の中に唯一ある扉の前に移動し、御柱はその脇に設置されたパネルに触れている。この扉も向こうで通った物と同じく、パネルで操作するタイプの扉のようだ。

 自動で扉が開き、幸善と御柱はその向こうに踏み出した。


 そこで重力がパタリと消えた。幸善の身体は踏み出した足の勢いのまま、自然と浮かび上がっていき、思わず体勢を崩しそうになる。


 咄嗟にダーカーとの訓練を思い出し、何とか体勢を立て直すことに成功するが、知らなかったから回転でもしながら、天井にぶつかっていたところだ。


「大丈夫か?」

「はい。大丈夫です」


 そう答えながら、幸善は扉の向こうに伸びていた廊下を見回した。


 そこは奇隠の本部のはずだが、今のところは無重力状態であることを除き、その見た目はQ支部の廊下と変化がない。

 唯一違いがあるとしたら、手すりがあることくらいだ。


「本当に本部だよな…?」


 天井を両手で押し返し、幸善は床に着地した。そこで壁沿いに伸びる手すりを掴み、体勢を整える。


 訓練したからでもあるのだろうが、仙気の操作や戦闘での身のこなしに比べると、無重力状態での体勢の維持は簡単だった。手すりがあることも、その難易度を下げている。


「頼堂。ここで少し待てるか?」

「どうしたんですか?」


 周囲を見回していた御柱が不意に声をかけてきた。その視線は何かを、誰かを探しているようだ。


「ここでの次の動きは本部の人間に聞くように言われている。人を探して、話を聞いてくる」

「それなら、俺も一緒に…」

「まだ慣れない場所で、二人揃って移動したら邪魔になる。それとも、一人で話を聞きに行けるか?」


 子供のような扱いには腹立たしさもあったが、実際に一人で話を聞きに行くことは難しかった。


 ここが本部である以上、日本人以外の仙人も多いはずで、その人達に日本語が通じるとは限らない。というか、恐らく通じない。ダーカーが特殊で、幸善一人では簡単な意思疎通も取れないだろう。


「大人しく待ってます」

「すぐに戻る」


 床や壁を蹴りながら移動し始めた御柱を見送り、幸善は廊下の端にぽつんと立っていた。


 手すりの有無という違いはあるが、それ以外にはQ支部の廊下と違いがなく、ここの廊下も窓が一つもない。

 もしかしたら、他の場所は違うのかもしれないが、少なくとも、ここからは宇宙を見ることができないようだ。


 せっかくなのだから、少しくらいは見てみたかったと落胆し、幸善は肩を落とす。


「あれ?ジャパニーズボーイだね」


 そこでその声が聞こえ、幸善はゆっくりと顔を上げた。


 見ると、廊下の先からこちらに、長い金色の髪を靡かせた一人の男が向かってくるところだった。

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