節制する心に迷いが吹き込む(1)

 頼堂らいどう幸善ゆきよしの心を複雑に掻き回した木曜日から一夜明け、金曜日の朝はいつものように始まっていた。我妻あづまけいの様子はいつもと変わらず、あの後に何もなかったのだろうかと幸善は思う。何かあったのなら気になるが、何もなかったのなら何もなかったで複雑な気持ちになる。この微妙な関係をこのまま続けていいものか、幸善には分からない。


 そう思っていた朝のホームルーム前のことだ。教室に入ってきた七実ななみ春馬はるまが我妻のことを呼び出していた。何かあったのだろうかと幸善と東雲しののめ美子みこが聞き耳を立てていると思ってもみなかった会話が聞こえてきた。


愛香まなか四織しおりが昨日から家に帰っていないみたいなんだが、何か知らないか?」

「愛香が?」


 聞き返す我妻と一緒に幸善と東雲も驚いた顔をして、互いに顔を見合わせていた。やはり、あの後に何かあったのだろうかと幸善が思った直後、我妻がかぶりを振っている。


「いえ、知りません。愛香は何も連絡なく、帰っていないんですか?」

「ああ、そうみたいだ。他の陸上部員にも当たっていると思うが、仮に何か思い出したことがあったら言ってくれ」

「分かりました」


 我妻が七実と話し終え、幸善達のところに歩いてくる。その時には久世くぜ界人かいとも加わり、三人で聞き耳を立てている状態だった。

 近づいてきた我妻に、東雲が我慢できなかったように詰め寄っている。


「さっきの話って…!?」

「どうやら、愛香が家に帰っていないらしい」


 聞き耳を立てていたから分かっていたが、実際に我妻の口から愛香四織が家に帰っていないと言われると、幸善や東雲は言葉が出ないほどの衝撃に襲われていた。東雲が何度か口をパクパクと動かしてから、慌てたように我妻に聞いている。


「けど、昨日、愛香さんと一緒に帰ったよね!?」


 その問いに我妻は迷いながらもかぶりを振っていた。


「確かに途中まではそうだったが、家までは送っていない。その前に、ここまでで大丈夫と言われたから、途中で別れた」


 我妻の言葉に東雲は目を真ん丸にしてから、途端に怒った顔をしていた。戸惑ったような表情で俯く我妻に近づき、その顔をまっすぐに見つめている。


「どうして!?せっかく二人で帰ってたのに、どうして家まで送ってあげなかったの!?どうして、一人で帰ったの!?」

「それは……すまん……」


 我妻は少し口を開き、何かを言おうとしていたが、すぐに閉じて、その謝罪の言葉を口にしていた。我妻が東雲に謝ることは何もなかったと思うが、幸善はそれ以上に我妻が何を言おうとしたのか気になっていた。


 さっきから、我妻は意図的なのか、無意識なのか分からないが、愛香と一緒に帰っている最中のことを隠しているようだった。その時に何かが起きて、愛香が一人で帰ることになったと思うのだが、その時に起きたことが分からないと、その時の愛香の気持ちも分からない。


「我妻君。話したのかもね」


 幸善にだけ聞こえる声で、久世がそっと言ってきた。同じことを思っていた幸善はその言葉にうなずく。

 どういう流れかは分からないが、我妻が自分の気持ちを愛香に伝えた。そのことで愛香は我妻と一緒にいることが辛くなり、一人で帰った。そう考えると辻褄が合ってくるが、そのことで家に帰っていないとすると、そこには悪い想像がつきまとう。


「だが、愛香はまた明日と別れ際に言っていたんだ」


 幸善の中で嫌な想像が膨らむ前に、我妻がそう呟いていた。


「愛香なら、ちゃんとまた学校に来るはずだ。ちゃんと家に帰って、来週には学校に来ているはずだ」


 そう強く信じた我妻の目を見て、東雲は流石に怒れなくなっていったようだった。幸善も我妻のように信じたい気持ちが強かったが、どうしても愛香が家出をした可能性を捨て切れず、大丈夫かと不安な気持ちが強かった。


 その日の内に、いなくなった愛香は最近増えている失踪事件の一つとして、ネットニュースに取り上げられていた。その記事がきっかけで、愛香が家に戻ることはないだろうかと、昼休みに少し期待していた幸善達だったが、結局、愛香が家に帰ったという知らせはないまま、放課後を迎えていた。

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