鯨は水の中で眠っても死なない(1)

 久世くぜ界人かいとの家を訪問したことによる疲労感は、翌日を迎えても完全に消えることがなかった。仙人としての活動を始めたことで、肉体的な疲労は寝たら問題なくなるようになった頼堂らいどう幸善ゆきよしでも、精神的な疲労はまた別物のようだ。快調な目覚めとはなることがなく、ベッドから抜け出す際にも、もぞもぞと緩慢な動きしかできなかった。


 ただし、その疲労とは裏腹に昨日のことは悪いことと思っていなかった。疲れた時は疲れたことばかりを考えて、後悔することも多いのだが、今はそれ以上に久世の珍しい一面が知れて良かったという気持ちが強かった。ここは仙人を始めたことで変わった部分かもしれない。以前の幸善なら、こんなに疲れるのなら行かなければ良かったと思っていた可能性が少しはある。行かなかったら行かなかったで、何かが起きたと分かる三人を見て、行った方が良かったと後悔するのだろうとも思うが。


 自分がこれだけ疲れているのだから、きっと当事者である久世や我妻あづまけいも疲れていることだろうと思った。東雲しののめ美子みこは疲れる要素がないため、疲れていることはないと思うが、異常に疲れた様子の三人を見て、不思議そうにするかもしれない。何をそんなに疲れているのだろうかと思うことはあっても、その原因が自分であるとは一切気づかないはずだ。


 そのようなことを考えながら、幸善はいつものように登校したので、教室の中に三人の姿を見つけた時は驚いた。東雲が元気そうなのは概ね予想通りなのだが、幸善と同じように疲れ切っているだろうと思っていた久世や我妻は、その東雲と普通に会話をしているところだった。


「あ、おはよう」


 幸善を見つけた東雲が声をかけてきた。それに挨拶を交わしながら、少し驚いた顔で久世や我妻を見る。いつもと変わらない様子で、二人も挨拶を口に出してくるのだが、そういえば久世が当たり前のように、幸善が来る前に二人と話していることも珍しい。

 昨日のことがあり、何か心変わりでもしたのだろうか。それに二人共、全く疲れていないのだろうか。そう考えると、異様に身体の重い幸善はその前の奇隠での仕事が、今になって肉体的な疲労になって現れたのかもしれないと思い始めていた。


 それなら、授業が始まるまでの間に少しでも身体を休めておかないと、どこかで眠ってしまうかもしれないと思った幸善が自分の席に移動し、そこで落ちつこうとした。

 それができなかったのは、三人との挨拶を済ませ、自分の席にさっさと戻ろうとした幸善の腕を、我妻ががっつりと掴んだからだ。その手に驚いていると、ゆっくりと我妻や久世の目が幸善に向いた。


『おはよう』


 声を揃えて言ってきた二人の目元に、くっきりとした隈があることにそこで気づいた。幸善だけが疲れているのかもしれないと思っていたが、寧ろ、二人の方が幸善よりも濃い疲れを見せているようだ。この二人を置いてはいけないと思い、幸善は会話に入ることにした。


「何の話をしてるんだ?」


 幸善の問いに東雲は自分のスマホを見せてきた。「このニュース見た?」と言いながら、東雲が見せてきたのはニュース記事のようだ。浜辺にクジラの死体が打ち上げられているのが発見されたらしい。幸善は疲れを気にしていたことで、ちゃんと意識して見ていなかったのだが、朝のニュース番組で少し取り扱われていた気がする内容だ。


「これを見て、このクジラはどこに行くんだろうって思って」

「食肉として加工されるのか、研究に使われるのか、それ以外の行き先があるのか、話してたんだよ」

「そんなの調べたら出るんじゃないのか?」


 幸善が最初に思いついたことを口に出すと、三人が唖然とした顔で幸善を見てきた。まさか、気づいていなかったのかと幸善が思った直後、東雲が大きな溜め息を吐いた。


「あのね、幸善君。それくらいは分かってるよ。スマホがあるんだから、これで調べたら、すぐに答えが分かるくらいは馬鹿じゃないから分かるよ?でも、今はそういうことじゃないんだよ。答えが分からないことをみんなで想像してみる。そういう楽しみもあるでしょ?分かる?」

「え?何?俺、怒られてるの?」

「ほら、幸善君はどう思う?そんな正論じゃなくて、自分の想像で言ってみて」


 東雲からの無茶振りに幸善は顔を強張らせた。何か良く分からないが、幸善は失敗したらしい。仕方ないので、幸善は適当に思いついたことを口に出してみる。


「事故か他殺か判断するために解剖される…」


 幸善の返答に東雲は黙り、ゆっくりと我妻や久世を見ていた。その視線に緊張した幸善が思わず唾を飲み込んだ直後、東雲が再び幸善を見て、ビシッと指を伸ばしてきた。


「よし!合格!」

「何が…?」


 良く分からないが、今の解答で良かったようだと幸善が思った瞬間、幸善のスマホが震えていることに気づいた。何だろうと思い、画面を見てみると、冲方うぶかたれんから連絡が来ている。


『仕事が入ったので、放課後、Q支部に集まってね』


 それは休みが終わったことを告げる一文だった。

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