鯱は毒と一緒に風を食う(30)
頭はシャチ。首から下もシャチ。腕に当たる部分はヒレの形をしていて、その内側には手に見える物がついている。足はヒレの面影は一つもなく、ただの人間の足だ。
その異形の姿からは嫌な印象を与える生温い風が吹いている。その風は肌で感じながら、幸善は目の前の鯱人間に既視感を覚えていた。
当然の如く、鯱人間とこれまでに逢ったことはない。
だが、既視感の正体はすぐに分かった。幸善がこのイギリスにいるきっかけを思い出せば、すぐに分かる。
この鯱人間は鷹人間と同じ部類の存在だ。
つまり、擬似人型という奴だ。
幸善の理解が現実に追いついた直後、眼前の鯱人間の腕が動き出した。殴られると直感的に思った幸善が身を守るように、両腕を顔の前に持ち上げようとする。
その行動を待たずして、鯱人間の腕が大きく振るわれ、フェンスの身体に直撃した。フェンスは大きく吹き飛び、身構えようとしていた幸善や呆然と眺めていたピンクとドッグは思わず振り返る。
「オータム!?」
ピンクがそう叫んだ瞬間、鯱人間の顔が動いて、今度はピンクに向いた。無防備に背を晒している状態のピンクだ。
そこに迫る腕をピンクは確認できていなかったが、咄嗟に気づいた幸善は再び視線を鯱人間に戻していた。
「危ない!?」
幸善が叫びながら、ピンクの身体を引く。体勢を崩すピンクを乗り越え、幸善は足を振り上げて、鯱人間の腕を蹴り飛ばす。
「大丈夫!?」
背後でドッグがフェンスに駆け寄る声が聞こえてきた。
「何だよ、あいつ……」
絞り出すように出された声はフェンスのものだ。
どうやら、無事ではいるらしい。
「あうぅ……だぁあ!あー!」
不意に幸善の目の前で鯱人間が声を上げる。その声に驚いていると、幸善に引かれて転んだピンクが立ち上がりながら、幸善に聞いてくる。
「鳴いたけど、何て言ってるの?」
「いや、言葉というか、これは……」
聞こえた声はシャチの鳴き声ではなかった。幸善の耳は妖怪の声として、今の声を認識したようだ。
だが、その内容は意味のあるものでもなかった。
それを身の回りで他にあるものに例えるとしたら、思いつくものは一つしかない。
「赤ちゃんの声だ」
「え?」
目の前の鯱人間が発した声は喃語に似ていた。似ていたというよりも、そのものだったと言った方が正確かもしれない。
つまり、鯱人間は赤ん坊のようなもので、言葉を理解できる存在ではない。
妖怪の声が分かる幸善でも、この鯱人間と意思疎通を図ることは難しい。
幸善の説明から、そこまで察したのかは分からないが、ピンクは幸善の腕を引っ張ってきた。どうしたのかと思った幸善が振り返ると、ピンクは頻りに辺りを見回している。
「話せる相手じゃないなら、移動しよう。ここだと巻き込んじゃうよ」
ピンクにそう言われて、幸善は改めて辺りを見回す。鯱人間の姿に気を取られ、幸善は一切意識していなかったが、当然のように幸善達は衆目を集めている。
もしも、ここで鯱人間が暴れ出したら、どのような被害が出るか分からない。止めようにも、他の妖怪とは違って言葉も通じない。
幸善はピンクの提案に首肯し、フェンスとドッグを見やった。ドッグの手を借りて、フェンスが立ち上がろうとしている最中のようだ。
「行こう。案内お願い」
幸善の頼みを聞いたピンクが頷き、幸善とピンクは揃って走り出す。それを見た鯱人間が何か言っているが、その声はやはり理解できないものだ。
「オータム!ブルー!移動しよう!」
ピンクの叫び声を聞いたフェンスとドッグがこちらに目を向けてきた。幸善とピンクは揃って手を伸ばし、二人の背後の道を指差しながら、そちらに逃げることを伝えようとする。
だが、二人は走り出すことなく、驚いた顔のまま幸善とピンクを見ていた。
そう最初は思ったが、その視線の向く先は幸善とピンクではなかった。
「後ろ!」
咄嗟にドッグが声を出し、幸善とピンクは揃って足を止めながら振り返った。直感的に幸善はさっきまで鯱人間が立っていた場所を見る。
しかし、そこには鯱人間がいない。どこに行ったのかと思ったのも束の間、幸善は視界を覆う影に気づいた。
目の前。そう気づいた時には遅く、幸善とピンクに飛びかかるように鯱人間がそこにいた。
その姿を目視し、理解し、対応するまでの時間はそこになかった。幸善が攻撃する時間も、防御態勢を取る時間もなく、その時間のなさが思考を飛ばしたと言える。
幸善は眼前の光景への理解以上に、やられるという意識に苛まれ、一瞬、そこで起こった変化の正体が分からなかった。
ただ分かったことを飲み込むとすれば、幸善の目の前で鯱人間は発光した。
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