節制する心に迷いが吹き込む(10)
右腕で抱えたノワールの言葉を聞くなり、幸善は左手で地面を叩いていた。幸善の身体は地面をほとんど転がる形で背後に動き、その直後、何かが空を切る音が聞こえてくる。
幸善の予想は当たっていたようで、その音が薫の攻撃なら、最初ほどの速さはないように思えた。これなら、右足が使えず、右腕がノワールで埋まった幸善でも避けられると思ってから、幸善は自分の背負ったハンデの大きさに気づく。
「ノワールを見捨てた方が逃げられるのでは…?」
「何を不吉なことを言ってるんだ!?」
「その状態で良く逃げられるな」
「ほら、正面!!」
ノワールの声を聞き、反射的に左足で地面を蹴る。その直後、空を切る音が聞こえてくると思っていた幸善の期待を裏切るように、その音は聞こえてこない。
「引き剥がせてないぞ!?」
ノワールのその指摘を聞かずとも、幸善は見えない状況を理解していた。恐らく、逃げる幸善を追って、薫も更に踏み込んできたに違いない。幸善は咄嗟に左腕を上げ、右腕に抱えたノワールを庇うように身体を回転させる。
その瞬間、左腕に深く何かが突き刺さった。このサイズは拳だと思いながら、幸善は地面に大きく叩きつけられる。アスファルトの硬さが全身にぶつかり、幸善が苦痛の声を漏らす。
同時に右腕の中にいたノワールにも衝撃が伝わったようで、苦しそうに鳴いていた。
「おい…!?痛いぞ…!?」
「仕方ないだろう…こっちは見えてないんだ…もう少し詳細な指示をくれないと対応し切れない…」
「分かった…なら、教えてやる…」
そう言ってから、ノワールが沈黙する。その間に聞こえてくる風の音が薫の接近を伝えてくる。
「ノワール…?」
「左拳と右足。動いてくるとしたら、その二つ。正面に来る」
幸善は頭の中で薫の姿を思い浮かべる。その体勢から、左拳によるパンチと右足によるキックが来るとしたら、その角度は制限される。
この辺りかと思う位置に左手を向けようとすると、ノワールがその手を少し引いてきた。
「もうちょっと…!?」
その誘導に導かれて左手を伸ばし、そこに当たる衝撃を受け止める。その隙に左足に迫ってくる右足を軽い跳躍で躱し、幸善は更に薫から距離を取った。
それらが暗闇の中で無事に行われ、幸善は感心したようにノワールに言う。
「お前、凄いな」
「見た目と匂いがあったら、あいつの動きは全部分かるぜ」
「どんな才能だよ」
そう言いながら、幸善は左手に残った感触を思い出す。さっきの拳は明らかに最初の一撃よりも弱かった。それは薫が加減をしているからなのだが、それにしても加減しすぎだと幸善は思う。
もしかしたら、力の制御が下手なのかと幸善が考えていると、白状するような薫の声が聞こえてきた。
「そんなに逃げるなよ。ただでさえ、こっちは慣れないことをしているんだ」
「慣れないこと?」
「俺が拳を振るう時は基本的に止めを刺す時だ。殺すことに身体を使うことはあっても、殺さないことに注力することはほとんどない。慣れていないんだよ」
「なら、そのまま諦めて帰ってくれ」
「それはできない」
薫が動き出す気配がする。それに合わせてノワールの指示を聞き、幸善は左足と左手を器用に使いながら、曲芸のように薫の攻撃を防いでいく。
そうして、薫と距離を開けながら、幸善はノワールに聞いていた。
「さっきの公園から、どれくらい離れた?」
「結構、離れたぞ」
「なら、どの方向に行ったら、また公園の前に行けるか教えてくれ」
「はあ?何で戻るんだよ?このまま逃げるだろ?」
「奇隠が公園の前で妖気を見つけていたら、俺達が逃げると見つからなくなる。そうしたら、助けが更に遅くなるんだよ。逃げる必要はあるけど、この場所を必要以上に離れることはできないんだ」
「何だよ、その面倒臭い話は…」
そう言いながら、ノワールが溜め息をつく音が聞こえた。
「なら、お前の左手方向、百メートルくらい先だ」
「そうか。サンキュー」
幸善は左足と左手で地面を叩きながら、ノワールの教えてもらった方向に移動を開始する。それに合わせて、薫の動く風の音も聞こえてくるが、ノワールの指示があればダメージは防ぐことができていた。
このまま行けば、時間を稼げる。
もしかしたら、幸善がそう思ってしまったことが悪かったのかもしれない。
不意に力が抜け、幸善は唯一動いていた左足すら膝を突くことになってしまった。何が起きたのか考えるよりも先に、左足を襲う猛烈な痺れに気がつく。
「どうやら、今度は左足みたいだな」
薫の声がゆっくりと近づいてくる。
そこで幸善はようやく気がついた。加減が下手な薫の攻撃は当てることが目的だったのではないということに。
あの攻撃は幸善の近くで手や足を振るうことが目的だったのだ。そこについた匂いを周囲にばら撒くことが目的だったのだ。
「ノワール…お前だけでも逃げろ…」
幸善が右腕からノワールを解放しようとしながら、そう呟く。
しかし、ノワールの返答はその思いを打ち砕くものだった。
「悪いが幸善…俺の前足もさっきから動いてくれない」
その声に幸善は今までノワールが鼻で薫の匂いを嗅ぎ、幸善に指示をくれていた事実を思い出す。ノワールに何の影響も出ないはずがなかった。そのことに今更気づいても、二人が動けなくなったことに変わりはない。
「さて、拳による加減は苦手だから、香りを嗅いでもらおうか」
薫の声がすぐ目の前で聞こえてくる。これ以上近づかれたら、何をされるか分からない。幸善は暗闇の中で、最後の抵抗をするように左手を振るっていた。
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