節制する心に迷いが吹き込む(11)
暗闇の中を猛烈な風が吹き抜ける音がした。その音に違和感を覚えながらも、幸善は近づいてくる薫に警戒する。
しかし、一向に薫が目の前に来た気配がない。
どうしたのだろうかと幸善が疑問に思った直後、ノワールの呟きが聞こえてきた。
「お前、何をしたんだ…?」
「はあ?何が?」
「え?まさか、無意識なのか?」
ノワールが何を言っているのか分からず、幸善は怪訝げにノワールに顔を向ける。
「取り敢えず、もう一回、左手を振ってみろ」
「左手…?」
「早く!!」
ノワールに言われるままに幸善は左手を振るう。それと同時に再び、猛烈な風が吹き抜ける音が聞こえてくる。それだけでなく、さっきは気づかなかったが、幸善の左腕全体に奇妙な感覚が生まれていた。
これは仙気の感覚に似ている、と思った瞬間、自分の左手を撫でるように風が吹いている感触に気づく。
「え?左手から風吹いてない?」
「ようやく気づいたのかよ!?お前の手から風が吹いて、それであの人型が吹き飛んでるよ」
自分の左手から風が吹いている。聞いたこともない現象の話をされて、混乱した幸善がノワールに言う。
「何で…!?」
「知るかよ!?」
ノワールの返答に幸善は納得する。確かにノワールが知っているはずがない。
「とにかく、左手を振るっていたら、あの人型は近づいてこれないみたいだぞ」
「分かった。取り敢えず、もう一回振っておく」
幸善がもう一度、左手を振るうと、再び風の吹く音が聞こえ、幸善の左手を風が撫でるような感触を覚える。
そこで幸善は暗闇の中に光を見ていた。これは何かと思い始めたところで、さっきまで痺れて動く気配のなかった左足から、痺れが消え始めていることに気づく。
「あれ?足が?」
「幸善。前足が動くようになってきたぞ」
「もしかして、風で匂いが飛んだからか?」
そう思った幸善は更に左手を振るう。幸善の考えは間違っていなかったようで、その度に幸善の視界は回復していき、完全とは言えないながらも、日常生活に支障はないくらいに前が見えるようになる。その間に左足は完全に回復していたが、右足は痺れが弱まったくらいで、完全に動くようにはなっていなかった。
ただこれなら、十分だと思い、幸善からかなり離れた場所まで吹き飛ばされ、焦ったように幸善を見てきている薫に目を向ける。
「何だよ…!?そんなの聞いてないな…!?」
「だと思う。俺も知らないし」
自分の左手から風が吹くメカニズムは未だに分かっていなかったが、感覚的にどうしたら風が吹くのかは掴めてきていた。この風が薫の動きを制限しているのなら、風を起こす方法さえ分かっていたら、ここは何とかなるかもしれない。そう思いながら、幸善は左拳を握る。
「やはり、君は分からない。耳持ちとなった理由も、その風も、君はそこに置いておくには危険すぎる。何としてでも連れていく」
薫の表情が変わる。それは恐らく、幸善に対して加減することをやめるつもりだと幸善は察した。
「ノワール。取り敢えず、俺の右腕にしがみついてろよ。その前足でしがみつけるのか分からないけど」
「どうやるか分からないが、意地でもしがみついてやるよ」
その確認をしている間に薫が動き出していた。幸善達に向かい、まっすぐに走ってくる薫に対して、幸善は握った左拳を振るう。その瞬間、風が幸善の左拳から吹いていく。
改めて目にすると、風は突風という印象が強かった。真正面からぶつかれば、成人男性でも吹き飛ばされるほどの速さで吹いている。
しかし、薫はそれを容易く躱した。まっすぐに走りながら、器用に身体を回転させて避けている。
どうやら、左拳から吹いた風は速さこそ凄まじいが、範囲が広くはなかったようだ。消防車のホースから放水するように、一点に向けて風が吹いているだけらしい。
幸善は数度、同じことをしてみたが、薫の接近を拒むことはできず、薫は幸善の近くまで迫っていた。幸善に向かって構える拳の強さや、その表情の険しさから、最低でも左腕は折る気だと幸善は理解する。
だから、幸善はそれを止めるため、薫との間に壁を作るように左手を振るっていた。
左手に感じる仙気が風を生み出しているのか、その仙気自体が風になっているのかは分からなかったが、その仙気が風に関わっていることは確かなはずだった。それなら、その仙気をうまく動かせれば、風自体も操作ができるはず。仙気の移動は仙技の基本で教わり、幸善にもできることなので、それがうまく行けば薫の動きを制限する風も幸善の武器となる。
そう思ったが、実際に戦いの中では使うには勇気が湧かず、今の今まで幸善はそれを実践してみようとは思わなかった。仮に失敗したら、それこそ敗因になりかねない。敗因くらいならまだいいが、死因になったら笑い者にもならない。幸善が死ぬだけなら自分のミスで片づくが、ノワールが殺されるかもしれないとなると、そこに賭けるべきではない。
その思いが強かったのだが、薫が目の前に来たら状況は変わる。これしかないと思い、壁を作るように振るった左手の気を、幸善の中で実際に壁を作るイメージで動かす。
その瞬間、風が薫を押し返した。それはさっきまでの速さこそないが、実際に壁と思えるような広範囲に吹き、薫の動きを完全に制限していた。
その様子に幸善は自信を持つ。
(行ける…!?良く分からないけど、風を操れてる…!?)
そう思った幸善に薫が焦りの表情を向けてくる。
「何なんだ、これは…!?あいつから聞いてないんだが…!?」
その声は風に紛れて、幸善には届かなかった。
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