節制する心に迷いが吹き込む(7)
自分を見つめる薫の視線に射抜かれたまま、幸善は言葉を選んでいた。ゆっくりと開く口はすぐに閉じ、しばらくしてから、ようやく言葉を口に出す。
「どうして、ここに…?」
「ん?何?え?」
幸善の問いを聞き、薫は不思議そうな顔をする。幸善の顔をまじまじと見つめながら、右手を顔の前で何度も振るっている。その動きの意味は分からなかったが、そのことを考えているだけの余裕は幸善になかった。
すぐに薫は不思議そうな表情のまま、幸善に聞いてくる。
「君は知らないのか?気づいていないのか?」
「な、何のことですか…?」
幸善はしらばっくれる。薫の問いの意味はもちろん分かっていたが、それに答えることはそのまま敵である証明になる。
その時は確実に殺されることだろう。
そのことが分かっていたから、幸善は絶対に薫に悟られないように行動しようと心に決めていた。ここでの選択が少しでも違っていたら、そこが幸善の最期だ。
しかし、この時の幸善は既にその選択を間違っていることに気づいていなかった。
「だとしたら、君はどうして、自分のスマホを壊されても平然としているんだ?」
その一言が幸善の顔を青褪めさせた。薫にばかり意識を集中しており、それ以外のことを考えることをやめていた。そのことに気づいても、既に薫の指摘した異変は消えない。
それどころか、薫は更に指を向けてくる。
「それに犬だ。首輪もリードもつけずに犬を連れ回す飼い主は少ないと聞く。特に君は以前、ちゃんとリードをつけて連れていた。それが今日は連れていない。そして、何より…」
薫は幸善の顔から数センチのところまで顔を近づけ、至近距離から眺めてきた。その行動に幸善は動揺する。
「平静を装い切れていない。それだけ顔に出ていたら、誰でも気づく。俺じゃなくても、誰でも」
そう言いながら、薫は幸善から離れる。それから、幸善の顔を再び観察するように見てくる。その間、さっきとは違い、今度は左手を奇妙に振るっている。
「さて、君はどこまで知っているのか…?それが一番の問題だな」
「何を…?」
「何って俺達のことだよ。どこまで把握しているのか…いや、全てが分かっていたら、そこに立ってはいないはずだ。少なくとも、分かっていないことはあるみたいだ」
薫は一人で納得している。何を納得しているのか幸善には分からないが、状況が悪化していっていることだけは分かる。
少なくとも、既に知らないフリは意味を成さないはずだ。
それはつまり、戦闘を避ける手段が幸善になくなったということを意味している。
「じゃあ、まずはせっかくだ。一方的に名前を知っているのも何だから、名前くらいは教えておこうか?まあ、どちらにしても、ただの個々を認識する番号だから、あまり意味はないかもしれないが…」
そう言って、薫は自らの胸に手を当てていた。
「俺はNo.14。誕生から十五体目の人型だ」
No.14。奇隠の定める個体認識名称、
薫と名乗っていた人物の本当の正体が開示された瞬間だった。それは同時に、幸善の危機感を増幅させる。
人型であると名乗った理由は明白だった。節制という正体を開示しても、それが他に漏れることはないと分かり切っているからだ。
たとえ幸善やノワールがそのことを聞いていたとしても、そのことが漏れることはないと自信を持っているからだ。
次の瞬間の動きは目で捉えられなかった。ただ薫に注意し、本能からの恐怖に従い、身体を咄嗟に動かした結果、最悪な事態は免れたと言える。
ただ気づいた時には、幸善の身体は道路を転がり、公園から大きく離れていた。十メートル近くは吹き飛ばされている。咄嗟に身体を庇った両腕は痛みを通り越し、感覚を失ったように痺れていた。
公園の前では薫が足を上げていた。今の攻撃は蹴りだったのかと幸善が分かった時には、薫の姿が幸善の目の前に来ている。
「どうした?反応できていないようだが?」
反射的に上げた左腕に薫の足がぶつかる。ミシミシと骨が音を立て、幸善の身体の中を響いている。折れてはいないが、左腕は元からの怪我もある。その痛みは声にならないほどだった。
幸善は歯を食い縛ったまま、左腕で受け止めた薫の蹴りに吹き飛ばされる形で、ガードレールにぶつかる。全身を襲う痛みは幸善の呼吸を一瞬止めるが、意識までは取っていない。
この時の幸善の頭は既に真っ白になっていた。仙技での対抗などは一切思いつかない。
それもそのはずだ。現時点で幸善は肉体の強化のために仙技を使っていたのだ。
それが簡単に壊されている。その事実は十分に幸善を絶望させていた。
「思っていたよりも手応えがないな。まあ、君はまだ仙人になったばかりと聞くし、それも仕方がないのか。これだと妖術を使う必要もないな」
「はあ…?妖術を使う必要がない…?」
幸善が驚いた顔で薫を見上げると、薫は同じだけ驚いた顔を向けてきていた。そのまま、首を傾げている。
「どうした?まさか、これが妖術だと思っていたのか?そんなわけがないだろう?これはさっきから、君もやっているはずだが?」
そう言われて、幸善は気がついた。これはただ妖気で肉体を強化しているだけだ。蹴りも、それによる移動も、全てただ妖気を身にまとっているだけだ。
今の攻撃は妖術と呼べるほどの強力な力ではなく、人型の基本的な戦闘能力なのだ。
そして、その事実が幸善を更に絶望させていた。
殺される。確実に殺される。幸善の手足は恐怖によって震えていた。
「おい、幸善!?」
不意にノワールの叫び声が聞こえてきた。その声に反応し、薫の目がノワールに向く。幸善もノワールが何か策を持っているのかと思い、顔を上げていた。
「諦めるなよ!?お前が殺されたら、俺も殺されるんだぞ!?」
「この状況で良くそれが言えたな!?」
ノワールに期待した自分が馬鹿だった。そう思った直後、薫の目が幸善に向いていることに気づく。そのまま、困ったように頭を掻き始めている。
「そうだった。君は殺せないんだった」
「……はあ?急に何を…?」
「君は耳持ちだったな」
「耳持ち…?」
聞いたことのない言葉を呟く薫の姿に、幸善の手足の震えは自然と止まっていた。
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