黒い犬は妖しく鳴く(2)

 唐突に「犬を渡せ」と言われた幸善は考えていた。素直に犬を渡すかどうかではなく、目の前の二人が何者なのかということを、だ。


 一人は幸善と同じ高校に通う高校生の可能性が高かった。一応、幸善の通っている高校に憧れるコスプレイヤーの可能性も残っているが、見た目的に同じくらいの年齢に見えるので、普通に同じ高校に通う高校生でいいだろう。

 ただ、この人物に関しては、それよりも腹立たしい気持ちの方が勝っていた。同じ高校に通う高校生かもしれないが、この人物を他の誰かに紹介するなら、『ムカつくやつ』と紹介するくらいに腹立たしい気持ちしか今はない。犬を一方的に渡せと言っていることもそうだが、その命令口調なところが堪らなく腹立たしい。


 この時点で幸善の気持ちは犬を渡さない方に傾いていた。


 そこに加わるのが、もう一人の存在だ。年齢も何をしている人なのかも分からないが、その表情の怖さだけは伝わってくる、というか、表情の怖さだけが全身から溢れ出ている。この溢れ出る怖さは幽霊と逢っても、幽霊の方が逃げ出すくらいの怖さだ。ホラー映画なら、あまりの怖さに苦情が来ることだろう。

 この表情の人間が真面な人間のはずがない、と幸善は思った。きっと裏で何かしらの悪い取引をしているに違いない。もしかしたら、犬も非合法で売り捌こうとしているのかもしれない。


 そう思ったら、幸善の中で犬を渡すという選択肢はなくなっていた。犬を抱きかかえる力が自然と強くなる。その動きに幸善と同じ制服を着た男は気づいたようだった。幸善を見る表情が怪訝なものに変わる。


「おい、どうした?何でちょっと強めた?」


 男が幸善に近づこうと一歩踏み出してきた瞬間、幸善は反射的に商店街の中を走り出していた。人気のない商店街に幸善の足音が大きく響き渡る。


「あ!?おい!?」

「追いかけるぞ」


 制服を着た男の声にもう一人の男の声が続き、その声や足音が商店街に入ってくるのが分かった。幸善は迫ってくる気配から逃れるように、ただひたすらに足を動かし続ける。男達の不意を突いて走り出したこともあり、この時点の幸善に追いつかれる気配はあまりなかった。友人の我妻と違い、幸善は陸上部ではなかったが、脚力にはそれなりに自信がある。これだけ距離が開いたら、相手が陸上選手ではない限り、簡単には距離を詰められないはずだ。


 そう思った直後、幸善の背後から聞こえる足音が唐突に派手になった。大きな足音は走る速度を上げるものとは思えないほどに荒々しいが、その音の近さが気になり、幸善は振り返る。


「待て」


 悪人面の男がターミネーターかと見間違う勢いで、幸善との距離を詰めてきていた。そのあまりに恐ろしい光景に、幸善は小さな悲鳴を上げ、背後を気にする余裕もないほどに走る速度を上げる。


 しかし、男の猛追に比べると、それはかなり細やかなものであり、距離は縮まり続けていた。最大の問題は男の猛追もあるが、犬を抱きかかえている点だ。大きく腕を振れない状態では全力で走ることができない。


(このままだと追いつかれる…!?)


 幸善はターミネーターさながらの勢いで追いかけてくる男に捕まる姿を想像し、背筋を凍らせた。そこから何が起きるのか、具体的な想像ができたわけではないが、殺されて死体が発見されないように処理されるかもしれない。そう思ったら、犬を渡しておいた方が良かったのかもしれないと、少しの後悔に襲われる。


牛梁うしばりさん!!屈んでください!!」


 悪人面の男に比べると存在感が薄いだけで、その男の後ろから変わらず幸善を追いかけていた、幸善と同じ制服を着た男が叫んでいた。誰にどの状況で屈めと言ったのか、気にならないわけではなかったが、必死に逃げている幸善に確認できる余裕はなく、男の声を無視しようとした。


 そこで不意に、幸善の手の中で大人しく抱きかかえられていた黒い犬が、幸善の手から逃れるように跳びはねようとした。危うく落としそうになり、幸善は慌てて前のめりになりながら、犬を手元に抱き寄せようとする。


 その直後、幸善の身体が大きく前方に。空中を大きく前転しながら、商店街の硬い地面に強く叩きつけられる。犬を庇うように背中から落ちた幸善は、ほんの一瞬だが、呼吸が止まりそうになり、死んだかと錯覚するほどだった。


 身体を起こすと、商店街は土煙に覆われていた。身体が吹き飛ぶ寸前に、背後から聞こえてきたで耳は使い物にならないが、土煙の向こうから微かに男の声が聞こえる。どちらの男の声かは分からないが、幸善よりは元気そうだ。


 何が起きたのかは分からないが、とにかく逃げないといけない。幸善はそれだけの思いで身体を動かし、近くの路地に入り込む。

 それからすぐに土煙の向こうから、二人の男が飛び出してきて、幸善を探すように周囲に目を向けていた。あのまま、あの場所にいたら捕まっていたかもしれないと思いながら、幸善は背中の痛みが少しだけ和らいでいくのを感じる。まだ触れると痛いが、骨は無事なようであり、怪我は擦り傷程度だ。逃げることはできる。


 そう思いながら、幸善はふと犬は無事かと気になった。商店街の方では二人の男が幸善の隠れた路地を無視し、更に商店街の先に向かって走り出している。その姿を確認してから、幸善は小声で犬に語りかけた。


「大丈夫か?怪我はなかったか?」


 そう言いながら、幸善が犬の身体を確認するために犬を持ち上げる。ちょうど犬の顔が幸善の顔の正面に来て、目と目が合った、その瞬間だった。


「逃げようとしたのにお前が捕まえるから、もう少しで死ぬところだったぞ」


 非常に流暢な日本語が飛び出した。あまりに突然の出来事に幸善は固まったまま、一切動けなくなる。


「おい。何で固まってるんだよ?」

「お前、喋れるのか?」

「はあ?お前、?」

「はあ?」


 唖然とした様子の幸善が、同じく唖然とした様子の黒い犬と向き合っている中で、商店街の方から不意に声が飛んできた。


「あ、見つけた」


 さっきも聞いたその言葉に、幸善は背筋を通り抜ける寒さに襲われた。まさか、見つかったのかと思いながら、その声がことに気づく。


「あれ!?大丈夫!?凄い傷だよ!?」


 心配そうに商店街から幸善の方に駆け寄ってくる人物を見て、幸善は驚きや衝撃から目を丸くする。近くの女子高の制服に身を包み、幸善に向かって手を差し伸ばしてくる人物は、幸善の記憶にない初めて逢う少女であり、これまでに逢った誰よりも可愛い人だった。

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