影は潮に紛れて風に伝う(19)
壁の亀裂から水が吹き出し、幸善は身体の自由を失った。洗濯機の中の洗濯物のように急流に揉まれ、幸善の身体は自動的に押し出されていく。
急流に抗おうと幸善は体内の仙気を移動させてみるが、急流で一度崩れた体勢を整えることは難しく、崩れた体勢で抜け出せるほどに急流は甘い勢いではなかった。
急流の中に引き摺り込まれ、幸善の口に蓋をするように水が身体にまとわりついてきた。呼吸手段が奪われ、幸善の体内から酸素が欠乏していく。
視界が次第に明滅し、幸善は急流の中に死神の姿を見た。手に持った鎌は幸善の首にかけられ、いつでも幸善の命を奪えると伝えてくるようだ。
死にたくない。咄嗟に心の底から湧いてきた願いも、急流の前では一瞬で流れていくばかりで、幸善の中に長く留まってくれなかった。
ゆっくりと幸善の意識が薄れ、生に対する願いも、死に対する恐怖も、一緒になって掠れ始めた。幸善は抵抗する余裕もなく、無条件で意識を手放していく。
そして、幸善の意識が完全に途切れるという直前、幸善を取り囲んでいた急流が急停止し、幸善の身体が唐突に静止した。
直後、釣り糸に引っかかった魚のように、幸善の身体が勢い良く水面に引っ張られた。
水面から身体が飛び出し、口の前を覆っていた蓋が取れた瞬間、幸善は飲み込んでしまった水を勢い良く吐き出して呼吸を再開する。
九死に一生を得るとは正にこのことか。幸善は生が繋がった実感に安堵しながら、水面の先で身体を転がした。
荒い呼吸を何度も繰り返しながら、口の中に残った水を吐き出そうとした時のことだ。幸善はそこで飲み込んだ水の味に気づいて顔を顰めた。
(しょっぱ……)
口の中に残った水の塩辛さに幸善が顔を歪める隣で、さっきまで流れていた急流の名残がゆっくりとした流れに変わり始めた。
その先から、ところてんのように男が押し出されてくる。
それはさっき幸善に声をかけてきた人形のような男だ。
「言ったはずだ。自殺志願者なのか、お前は?」
「……何だ?何が言いたいんだ?」
いつの間にか、完全に流れの消えた水の中で男が立ち上がり、転がった幸善を見下ろしながら、冷たい口調で何かを吐き捨ててきた。
しかし、さっきまで酸素不足だった幸善の頭では、その言葉の意味を考えるだけの余裕がなく、何を言っているのか全く理解できない。
「……お前が助けてくれたのか?」
そう聞いてみたところで、幸善の言葉が男に通じることもない。幸善を不快そうに見下ろすばかりで、質問に対する答えが返ってくることはなかった。
男が濡れ切った自分の身体を見下ろし、胸の前に手を移動させた。洗った手から水分を振り払うように、その手を勢い良く下に向かって振る。
その瞬間、男の身体を濡らしていた水分が全て絞られたように、男の足元に落ちた。男の足元に人一人分の水溜まりが生まれる。
その光景を見ていた幸善が男を見上げるが、男が幸善を見てくることはなかった。
(こいつは何者だ?)
男の振る舞いや今の光景に疑問を浮かべるが、今の働かない頭では答えを導き出すほどに考え切ることは難しかった。
「生きる気力があるなら、無駄なことはせずに待て。お前への対応はもう決まっている」
「……何だ?」
男の言葉は半分以上理解できなかったが、何かを待つように言っている部分は何となく理解できた。
ただし、何かを待つように言っていると思った幸善は、その何かが分からない時点で、ちゃんと理解できたとは思えていない。
「もう壊すな。分かったか?」
男は一方的にそう言って、幸善がさっき破壊した壁を指差した。
そういえば、水はすっかり止まっているが、何が起きたのだろうかと幸善が身体を起こしてみると、さっき亀裂が入ったはずの壁はすっかり修復されている。
「は、はあ……?何でだよ……?」
理解できない光景に眉を顰め、説明を求めるために幸善は男を見たが、男は既にそこから姿を消していた。少女の時と同じように突然の消失だ。
「またか……」
幸善は怒りや焦りよりも、諦めの感情を抱えて、地面に深く倒れ込む。
ここはキッドの島で、幸善はキッドの掌の上だ。それはどの場所で、どの状況でも変わらない事実らしい。
それを完全に理解した幸善は壁の破壊を諦めて、ウィームのところに帰ることにした。
焦りから選んでしまったが、これは正攻法ではなかった。正攻法でキッドとの接触を試みるべきだ。
そう考えた幸善の頭では次に取るべき行動が思い浮かんでいた。
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