影は潮に紛れて風に伝う(20)
「おかえり……なさ……」
そこまで口に出しながら、その続きの言葉はウィームの喉の奥に引っかかったように出てこなかった。驚きを表現する見開いた目で幸善を見つめ、ウィームはしばし呆然とした様子で立ち尽くしている。
「ただいま……」
やや力なく幸善が答えると、ようやくスイッチが押されたようにウィームは動き出した。ゆっくりと手を伸ばし、動物と触れ合うように恐る恐る幸善の身体に触れてくる。
「どう…したの……?」
ウィームの手が幸善の服を掴み、きゅっと強く握り込むと、そこから水が滴り落ちた。地面に小さな濡れ跡を作り、幸善は苦笑を浮かべる。
「水溜まりの水をトラックが跳ねて、この様だよ」
意識的に冗談っぽく言ったつもりだったが、幸善のおどけはウィームに通じなかったようで、ウィームは不思議そうに首を傾げるだけだった。冗談の一つを噛ました時に、そういう本気の対応を取られると、等しく恥ずかしさを覚えるものだ。
幸善は少し頬を紅潮させ、冷え切っていた身体に少しの温みを帯びながら、部屋の奥に目を向けた。
「先にシャワーを借りてきてもいい?」
幸善が部屋の奥を指差し、そこにあるシャワールームを示すと、その指を追うように視線を移動させたウィームが途端に慌て始めた。濡れたままでいるのは良くないと思ったのか、何度もこくりと頷きながら、幸善を急かすように背中を押してくる。
その対応の変化に笑みを浮かべながら、幸善は部屋の奥にあるシャワールームに移動した。そこで濡れ切った衣服を脱ぎ捨て、冷え切った身体を温めながら、壁付近で起きた出来事を思い浮かべる。
分かったこととしては、少女の忠告は嘘ではなかったということだった。壁を破壊すること自体は事実、危険だった。
それが逃走に繋がるから止めたのだと幸善は考えたが、実際はそれが明確な被害を及ぼすから止めたのだろう。それはさっき現れた男の態度からも想像がついた。
壁を破壊して外に向かうことは難しい。それが分かっただけでも一つの収穫に思えるが、得られた情報はそれだけに留まらなかった。
幸善は壁から流れ出る急流に押され、生死の境を彷徨った直後に、幸善の口内を支配した味を思い出す。誤って飲み込んでしまった水由来の味だ。
それはただの水ではなく、しょっぱさを感じさせる水だった。言い方を変えると塩水だが、壁に耳を当てた時に聞いた音は水の流れる音だ。塩水の流れる川というものを幸善はあまり聞いたことがない。
ただ壁を壊した瞬間に水が流れ込むほどに満たされ、時に流れる水の音も生み出す、塩水も関係する場所と言われたら、一つだけ簡単に導き出される答えがある。
それが海だ。幸善はシャワールームの中で身体にまとわりつく、べたつきを洗い流しながら、島を覆う天井を思い出した。
元々この島は太平洋上で発見されたが、そこからすぐに姿を消し、行方が分からなくなっていた。その際の確認方法は本部が島を直接的に確認するというものだ。
奇隠の本部は宇宙にあったので、そこから太平洋上にある島を視認したのだろう。仙気等による観測ができない以上、それしか手段はなかったはずだ。
それから逃れることができるとしたら、島一つを動かすしかない。普通は無理だが、それ以外にないためにその手段を取ったと仮定してみる。
そこで疑問になるのが、移動速度だ。島の規模は確かに大きいと言えるほどの大きさではないが、それでも村を四つ抱えた島が一瞬で移動できるとは思えない。どこかの大陸にくっつけようにも、奇隠がそれを見逃すだろうか。
その疑問を解消する唯一の方法が幸善の味わった海水だった。
もしも、この島がドーム状の壁に囲まれているのが、単純に外を見せないためではなく、外と隔離するためなら、この島の場所は普通に外気に触れている必要がない。
つまり、海の底に沈めても、この島は存在できる可能性がある。
まさか、ここは海底なのか。湧いてきた可能性に苦笑を浮かべ、幸善はキッドの顔を思い浮かべた。
何をするか分からない男だ。何をしてもおかしくはない。島一つを海底に沈めるくらいはやってのけて不思議ではない。
ただし、そうなると生じる疑問もいくつかあるのだが、それはまた別の機会に考えることにして、幸善は次に自分が取るべき行動を思い返した。
キッドの居場所を確認する。焦りや不安から盲目的になっていたが、そのために取れる手段の中で、正攻法と言える手段を幸善は試していなかった。
それを試すためには、まずウィームと話さないといけない。
そのために濡れた言い訳を考えないと。幸善はトラック以外の乗り物を思い浮かべた。
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