鯱は毒と一緒に風を食う(35)

 地面に伏したまま、指先を動かそうと意識を集中させたが、指先は痙攣するように僅かに震えるだけで、それ以上に動くことがなかった。

 うつ伏せになったことで胸部が圧迫されている側面もあるとは思うのだが、それを考慮したとしても、明らかに異常と言えるほどの息苦しさにも襲われる。


 立ち上がろうにも指先だけではなく、腕全体に力の入らない状況では難しく、幸善はうつ伏せで倒れ込んだまま、息苦しさから抜け出すために大きく息を吸う必要があった。


 しかし、それも今の幸善には難しいことなのか、幸善は大きく息を吸おうとしては、それが敵わない自身の身体の不自由さに、自然と表情は険しいものに変化していた。


 気づけば、倒れ込んだ状態のまま、必死に抗おうとする幸善を見下ろすように、青年が幸善の顔を覗き込んでいた。


「ぁい…ぇへいぅ……?」


 何を見ている、と幸善はそう言ったつもりだったが、辛うじて口から漏れた息が声に似た音を鳴らすだけで、幸善の口から真面な声は出てくれなかった。


 息苦しさの正体にも繋がる肺の空気不足だけではない。幸善の唇や舌も言葉を発するだけの活躍を見せてくれない。


「ああ、うん……効いてる……やっぱり、こういうのもいいなぁ……」


 心の底からの喜びを垣間見せるように、青年はニンマリとした笑みを顔に張りつけた。不意に訪れる嫌悪感は幸善の動かない身体を僅かに震わせて、幸善はさっき自身を襲った身震いの正体を理解する。


 そこで思い出したのは、セバスチャンの最期の頼みとなった話だ。


 牧場の羊を見に来る男の存在。その男について、セバスチャンは獲物を見定める目をしていると表現していた。


 そして、今、幸善の前にある青年の目は正しく、その獲物を甚振り、弄び、恍惚としている目だ。その目を見るだけで、他の説明は何もなくても、既に答え合わせは完了しているようなものだった。


 この青年こそがセバスチャン達を殺害した人型だ。

 人型のNo.10、運命の輪とはこの青年のことだ。


 そうと分かれば、幸善が気にかけるべきはフェンスとドッグの存在だった。人型を前にして、二人が無事でいられるとは思えない。


 逃げろ。幸善はそう言おうと思い、唇を動かそうとしたが、幸善の口は相も変わらず、自由さを忘れていた。


「何者だ?」


 フェンスが不可解そうに眉を顰めて、青年にそう聞いていた。青年は僅かに顔を上げて、フェンスとドッグを見やり、さっきまでと同じようにおどおどとした態度を作り出す。


「いや……別に……」

「幸善に何をした?」


 ドッグがフェンスの胸に手を押し当て、フェンスを青年から離れさせるように押しながら、青年に質問を投げかけた。


 フェンスはドッグの行動に驚いたように視線を向けているが、ドッグはその視線を見返す余裕もないようで、一切青年から目を離そうとしない。

 恐らく、ドッグは青年の正体に気づいている。


「ちょっと……身体の自由を奪っただけさ……接触で移すタイプだから……殺すところまでは無理なんだ……」


 ドッグに対する言葉は当然のことだが英語だった。転がり、全身の自由を奪われた幸善には、それを翻訳するだけの余裕がない。何を言っているかは分からなかったが、青年の視線は幸善を観察するように向いていて、それだけは好機と言えた。


「オータム……」

「何だよ?」


 小声でフェンスに何かを伝えようとするドッグに対して、フェンスは一切、その様子の変化に気づかないように、平然とした様子で返事をした。その返答にドッグは焦りながら、僅かにかぶりを振っている。


 そこまですれば、流石のフェンスも異変に気づいたらしい。ドッグと幸善を見比べて、そこでようやく頭の中で忘れていた要素が繋がったようだ。


 途端にフェンスは顔を真っ青にして、引き攣った笑みを浮かべた。


「合図したら……」


 ドッグが何かを言いかけたタイミングだった。不意に青年が幸善の口の中に指を突っ込み、フェンスとドッグに目を向けた。

 その視線に中てられ、二人は声を失ったように黙ったまま、青年をじっと見やる。


「何かしたら……ちゃんと死ねる奴を……ここにぶち込むから……」


 ふらふらと言葉を選ぶように青年は脅しを吐いた。その言葉を幸善は理解できなかったが、フェンスとドッグの表情を見ていたら、何を言っているかは大凡の見当がついた。


 同時に疑問も懐いた。


 正確に青年の言葉を理解できたわけではないが、もしも青年が幸善を殺す旨を言っているとしたら、それは人型の行動としてあり得ないことだ。


 人型は耳持ちである幸善が存在する理由を知らないまま、幸善を始末することはできないはずだ。それは万が一の可能性を引き起こす、人型にとって悪手の一つだ。


 もしも、それを気にしないとしたら、その可能性はいくつか絞られる。


 幸善が存在する理由が分かったか。他の耳持ちが見つかったか。幸善を殺してはいけないと根本的に忘れているか。


 二つ目の理由は考えて、すぐに違うと思った。他の耳持ちが発見されても、幸善と同じパターンだと断言することはできない。幸善の理由も調べないまま、殺すことに決めるとは考えづらい。

 当然、最後の理由もあり得ない。人型がそこまで不用心とは思えない。


 そう考えた時、残った可能性は一つしかない。


 幸善は青年を見やって、奇隠の本部で聞かされた話を思い出した。

 人型はまさか、幸善の血縁のことを知ったのか。それなら、愚者ザ・フールはそのことをどう考えているのだろうか。


 そう幸善が考えようとした直後、青年の目が幸善に向いた。隅々まで観察するように、ねっとりと絡みつく視線は本能的な不快感を幸善に与えてくる。


 青年は僅かに息が荒く、幸善を観察する表情は正に恍惚としたものだった。その様子を前にして、幸善は頭の中に浮かび上がっていた考えの全てを忘れていく。


 違う。これはもっと違う。根本的に違う何かだ。そう感じるのだが、そう感じた理由までは分からないまま、路地の中の膠着状態は続いていた。

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