憎悪は愛によって土に還る(12)

 相亀の拳が頭にぶつかって、ザ・フライの頭は背後に跳ねた。頭に引かれて身体を逸らし、ザ・フライは背後に倒れ込もうとする。


 衝撃が伝わったことは確かだ。構えていない頭では拳を受け切ることもできていない。

 だが、ダメージがあったかと言えば怪しいところだった。少なくとも、相亀の拳には手応えがない。


 このままよろめきに任せて、ザ・フライが相亀から距離を取った途端、ザ・フライは相亀の間合いから逃れ、再び自由に動き始めるだろう。

 その攻撃に合わせて、相亀が再び拳を叩き込むことはできるかもしれないが、その際に負うダメージの差は言うまでもない。


 今の蹴りによる衝撃か、その蹴りを受け止めるために変な力み方をしたからなのか、相亀は小さく短い呼吸を繰り返すだけで、正常な呼吸もできなくなっていた。


 これが何度も続けば、先に倒れる方は決まっている。ここで逃すわけにはいかないと、相亀は腹に当たった足を抱え、背後に倒れ込もうとするザ・フライの身体を引いた。


 手元にやってくるザ・フライを見ながら、相亀は再び拳を構える。変則的な呼吸を繰り返している状態だ。うまく力を入れることはできなかったが、最低限の力を込めて、相亀はザ・フライの身体に拳を振るった。


 瞬間、引き寄せられたザ・フライの頭と相亀の拳がぶつかった。先ほどと同じようにザ・フライの頭は軽く跳ねるが、そこに重さが乗っているとは言い難い。


 それでも、相亀に残された選択肢は一つしかなかった。


 ザ・フライの身体を逃がすことなく、その足を掴み続けながら、ザ・フライの頭に拳を叩き込んでいく。


 ザ・フライの頭は相亀の拳を耐えるためのコーティングが施されていた。土による鎧のようなものだ。それが相亀の与える衝撃を全て逃がしていたが、それも次第に薄くなっていることが拳に伝わる感覚から分かった。


 このまま殴り続ければ、この鎧も消えて相亀の一撃が通るようになる。その時になれば、形勢は逆転する。


 そのように相亀が思った数秒後、相亀は唐突な腕の重さに襲われ、ザ・フライの頭を狙った拳を身体に叩きつけた。その勢いに引き摺られるように、相亀の身体がザ・フライの方に倒れ込んでいく。掴んでいた足も解放してしまう。


 何が起きたのか。相亀の頭では理解できなかったが、それも当然のことだった。

 この時の相亀はそれまでの不規則な呼吸に加え、ザ・フライの頭を殴り続けるという運動をしたことで、完全な酸素不足に陥っていた。


 視界が揺れて、手足に力を入れることができず、抗えない重力に導かれ、ザ・フライの上に、その下にあるショッピングモールの床に、倒れ込んでいく。


 しかし、相亀の身体は倒れ込むことがなかった。ザ・フライの身体に凭れかかる寸前、ザ・フライの左腕が伸び、相亀の頭に拳を叩きつけてきた。


 土によって作られた左腕だ。その振り抜き方は甘く、通常ならダメージと言えるダメージが与えられることはない。ガードすれば十分に耐えられる一撃だ。


 だが、この時の相亀は無防備に頭を晒していた。その腕による一撃でも、十分に吹き飛ぶほどのダメージが乗ってきた。


 それだけではない。ザ・フライは何もない右腕を伸ばすように、右肩を相亀に振るってきた。その動きに合わせて、右腕のあった場所に土が集まり、その土が腕の形を作り上げていく。その腕は通常の腕よりも明らかに長く伸び、離れようとする相亀の足を掴んだ。

 それだけでザ・フライの考えることは酸欠状態の相亀にも分かった。


(やば……)


 本能的に察した瞬間には、相亀の身体はザ・フライの手元に引かれ、ザ・フライの左拳が叩き込まれた。


 そこから、さっきの意趣返しと言わんばかりに、ザ・フライが相亀に拳を叩き込み始めた。右手で逃げないように足を掴み、左手で相亀の身体を殴り続ける動きだ。


 相亀はそれに抗う手段がなく、その衝撃を身体中に受けながら、苦しさだけを感じていた。さっきから、ずっと呼吸ができていない。拳のダメージよりも酸欠状態に陥ったことの方が苦しくて堪らない。


 痛い。苦しい。眠い。しんどい。様々な感情が頭の奥底から湧き出ながら、相亀の意識がついに相亀から離れようとした。


 その瞬間、相亀の肺が思い出したように大きく息を吸い込み、相亀の意識が引き摺り込まれるように相亀の中に戻ってきた。


 はっきりとした視界の中で眼前に迫るザ・フライの拳を発見し、相亀は反射的に手を動かす。

 受け止めることは厳しかったが、その動きによってザ・フライの拳は相亀の頭から逸れて、空を切っていた。


 左手を振り抜いたことで無防備になった脇腹が相亀の眼前に差し出される。それを見た相亀は思考を挟むことなく、条件反射的にそこに拳を叩き込んでいた。


 土の鎧をまとったザ・フライに対する不安定な体勢からの一撃だ。ダメージと言えるダメージは与えられなかったが、状況をリセットすることはできた。


 ザ・フライが相亀から離れ、相亀はショッピングモールの床に背中を叩きつける。その痛みに顔を歪めながら、働き始めた頭が唐突に過去の記憶を掘り起こしてきた。


「呼吸は妨げだぁ」


 きっかけはディールの一言だった。


 呼吸はあらゆる行動を阻害する。攻撃も防御も最速を求める上で呼吸が邪魔になる瞬間がある。


 その時に意識的に呼吸を止めていたら、その思考が遅れる原因になるからと言って、ディールは何かの行動を取る時に自動的に呼吸を止める手段を身につけるように言ってきた。


 そんなことが可能なのかと思いながら、相亀は言われるままに特訓を繰り返していたのだが、今の今まで相亀はそれを自分自身が行っていることに気づいていなかった。


 血を失ったことは確かだ。ふらふらとする頭は残っている。考えもさっきよりはマシだが、まとまっているわけではない。

 だが、受けたダメージの総量が想定よりも低いなら、もう少しだけ相亀には取れる手段があるということになる。


 どちらにしても、ザ・フライの動きは目で追えない。時間を与えても、さっきのように学習されて、向こうの攻撃に利用されるだけだ。

 短期的に決着をつけるなら、この方法が一番だ。


 相亀の前でザ・フライが再び動き出そうとしていた。それを相亀は止めることなく、ザ・フライが動き出す光景をただ眺める。


 ザ・フライの攻撃が来たら、それを受け止めて、もう一度、ザ・フライに攻撃を叩き込み続ける。耐久力に限界を迎えない鎧はない。これでザ・フライにダメージを与えられるまで、今度こそ、持久戦に持ち込めばいい。


 そのような馬鹿としか言いようのできない勝ち方でいいのかと思うところもあるが、今の相亀に他の手段は取れない。ディールなら違うのかもしれないが、相亀には無理だ。


 ザ・フライがこちらに目を向け、先ほどまで同じように姿を消す、と相亀が思った直後のことだった。


 ザ・フライが目の前で姿を消すよりも先に相亀の身体を衝撃が襲った。何かがぶつかってきた感覚で、意識外からの衝撃に相亀は抗うことなく、床に倒れ込んでいく。


「え……?」


 そう言いながら、相亀は視線を横に向けて、床に身体を打ちつける。その上に誰かが乗った感触を覚えながら、相亀は視界の端でザ・フライが消えたことを確認した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る