吊るされた男は重さに揺れる(10)
幸善が身体に異様な重さを覚えたように、重戸の身体は同じ重さを持って、幸善の腹に落ちてきた。拳を中心に減り込み、そのまま地面に落下する。その衝撃は凄まじく、幸善は声も息も失い、数秒間、何も考えられない空白の時間を生み出すことになった。
「……善!幸善!」
ノワールの声が何度も耳の中で反響し、ようやく現実にピントが合った瞬間、幸善は自分から少し離れた位置に立つ重戸の存在に気づいた。腹から背中に抜けた衝撃は整わない呼吸として幸善の身体にダメージを残し、間一髪殴られることを避けたノワールは幸善の腹の上で、幸善の胸元を何度も引っ掻いていた。爪を立てない前足を何度も擦りつけるような動きに、こそばゆさを覚えたことで、幸善はまだ自分が大丈夫だと理解する。
「大丈夫だ…」
そう何とか声を捻り出し、ノワールを退けようとした時になって、幸善は腹の上のノワールの重さに気づいた。刻々とノワールの尻が腹に沈み込み、やがてへたり込むように落ちたノワールの頭が、尻に続いて幸善の腹に沈み込んでいく。
「うぐぅ…」
僅かに呻く声がノワールの口から漏れた。肺を押し潰し、漏れた空気が音を立てたような、声とも呼べない呻き声だ。
「大丈夫か?」
そう声に出し、ノワールに手を伸ばそうとしたところで、幸善は自分の手や腕が地面に張りついたように動かないことに気づいた。ゆっくりとアスファルトに沈み込むように、幸善の腕が潰れていく。
不意に幸善は河猫の殺害現場を思い出した。人型に陥没した地面も、地面に減り込んだ小さなコンクリート片も、全てはこういうことかと遅まきながら気づく。
手も指も足も首も、既にうまく動かすことができなくなっていたが、幸善とノワールが潰れるまで、まだ少しばかりの時間があった。重戸の妖術の正体は漠然としか分かっていないが、その漠然とした要素だけで穴は見えている。何とか動かせる眼球で、重戸の立つ場所や自分の隣を見れば、そのことに確信は持てた。
手も指も足も首も、既にうまく動かすことができないほどに身体は重くなっているが、それは表面的な部分での話でしかない。体内を循環する仙気には重さの概念がないので、それを動かすことは潰れそうになっていても可能だ。
幸善は体内の仙気を背中に移動させ、自分よりも先に潰れそうなノワールが潰れ切る前に、背中で風を起こした。瞬間的にかかる重力を抜け、幸善は重戸から離れた位置に背中から着地する。
「…大…丈夫か……?」
背中を地面に打ちつけた衝撃で、それ以前から不安定だった呼吸を更に不安定にさせながら、幸善は何とか声を捻り出した。千明との約束がある手前、ノワールに怪我をされると、ここで生き残っても死ぬことになる。そのことを危惧できていたわけではないが、ノワールが腹の上でか細いながらも「大丈夫」と声を出し、幸善はほっとする。
「どうして、逃げるの?」
さっきまで幸善が沈みかけていた地面の上に立ち、重戸が不思議そうな顔をした。バランスを崩したように膝をガクンと崩しかけ、「おっと」と声を漏らしている。
「君は殺さないから、大丈夫なのに」
あっけらかんと呟く重戸の声を聞きながら、幸善はさっきまで少しも動かなかった手や足を動かし、何とか立ち上がろうとしていた。幸善は殺さないという重戸の発言から察するに、重戸は幸善ではなく、ノワールを狙っているようだ。このまま、重戸の攻撃を受け続けたら、幸善の腹の上でノワールはスクラップにされることだろう。
「それとも、自分の目の前で誰かが殺されるのは嫌?」
「そんなの…当たり前だろ!?」
「だよね…」
幸善が沈みかけた地面を整備するように、足を左右に動かしながら、重戸が小さくそう呟いた。その一瞬の表情が、さっきまでの人型、吊るされた男の表情ではなく、浦見の隣にいる重戸茉莉の表情と重なって見えて、幸善は立ち上がりかけていた足を思わず止める。
「でも、ごめんね。もう私には後がないんだ」
重戸が小さくそう呟いた時には、手足に重りを巻かれたように、幸善は動きづらさを実感していた。ほんの少し前まで、立ち上がろうとしていた手足が、それを拒絶するようにうまく動いてくれない。このままだと本当にノワールがスクラップになると幸善は恐怖と焦りを覚えた。
その時だった。幸善の目の前に立っていた重戸に向かって、何かが飛んでいった。幸善の脇を風のように走り抜け、颯爽と通り過ぎたそれを、最初は自動車かと思ったが、それにしては小さく、大砲かと思ったが、それにしては場違いだ。
一体何が、と思った幸善が顔を上げた時、重戸はその飛んできたものから逃れるように、宙を舞っていた。重くできるということは軽くできるということなのだろう。空中ブランコを渡るように、綺麗に空中を回転しながら、重戸が幸善から離れた位置に着地した。
気づいたら、幸善の手足に感じていた重さも消え、そのことに安堵したのも束の間、幸善の目の前で飛んできた何かが、グイッと顔を近づけてきた。
「おいおい、昨日の疲れを引き摺ってるのか?」
その一言に怒りを覚えた幸善が、顔を怒りで歪めながら、近づいてきた顔を離れさせるために押しのけた。正面から遠慮することなく掴み、アイアンクローを弱くかける形で、一気に肘を伸ばす。その動きに首をやりかけているが、それで気にする必要はない。
「お前こそ、派手に動いて腕折るなよ」
何故なら、それは相亀だからだ。幸善の行動と発言に苛立ったようで、相亀は自分の首を片手で押さえながら、睨みつけるように幸善を見てきた。小さく「助けてやったのに」と言っているが、その言葉は無視して、幸善は重戸に目を向ける。
いくら一人増えたからと言って、疲労の抜け切らない幸善に、両手が折れかけている相亀の二人だ。その二人で人型である重戸を相手に、何とかできる保証はない。寧ろ、何とかできない可能性の方が高い。
さて、どうするかと頭を悩ませる幸善の隣で、相亀が幸善の考えを打ち破るように立ち上がり、ビシッと幸善に指を差してきた。
「おい、頼堂!」
「何だよ、急に?」
「いいか?良く聞け!ここは俺に任せろ!」
「はあ?」
突然何を言い出すのだと幸善が思った直後、相亀が幸善に背を向け、重戸に向かって正面から飛び込んだ。
「いや、待てよ!?」
さっきまで浦見の家の周りにいたはずの相亀が、重戸の妖術も分からない状態で戦って、そこに勝機があるはずがない。
「死んだな…」
ノワールの呆れた声に同意しながら、幸善はノワールを肩の上に乗せ、ようやく立ち上がった。仕方ないから相亀の援護に回るしかない。幸善は相亀と重戸の動きに注意しながら、自分のできることを探し始める。意思の疎通も儘ならない最悪の状況の中で、幸善と相亀の共闘が始まっていた。
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