虎の目が光を失う(5)

 赤い髪の男は目、トラ頭の擬似人型は氷。加原は使わないだろうと引き出しの奥に仕舞っていた情報を引っ張り出し、二人の動きを窺っていた。当然のことだが、加原の情報を二人は知らないはずで、加原がどのような仙技を用いるのか、二人は把握していない。一方的に力を把握できている状況は有利だ。


「殺さないように気をつけろ」


 恋路がザ・タイガーの耳元で囁くように命令を口にする。ザ・タイガーは反応を見せないが、恋路の命令に逆らうつもりはないようだ。そういう力関係であるということだろう。


 起き上がろうとした体勢のまま、身体を起こすよりも観察に意識を費やし始めた加原を見下ろし、ザ・タイガーが動こうとしていることが分かった。恋路から何かを囁かれた直後のことだ。その動きが攻撃に直結していることは予測できた。


 だから、その前に加原は動く必要があった。小さく構えていた拳を振るって、その指の隙間から仙気を射出する。


 仙気は細く伸びて、針のように飛び出し、恋路とザ・タイガーを襲っていく。恋路はそれを容易く躱し、ザ・タイガーは身体の表面を氷で覆って、それらの仙気を簡単に防ぎ切った。


 それを確認するよりも先に加原は走り出していた。恋路とザ・タイガーに背中を向けて、一目散にその場を走り出す。


 敵前逃亡。状況だけを言語化するとそうなるが、これは冷静に考えついた加原の作戦だった。


 加原は一級仙人ではあるが、いくら一級仙人でも人型を相手にすることは難しい。擬似人型一体だけなら、これまでの記録から考えるに何とかなる可能性はあるが、そこに人型が加わると一人での相手は不可能だ。


 元々、人型の討伐が目的ではない。今回の目的は時間稼ぎだ。

 それを考慮した時に、最初に取るべき行動は逃走だった。逃げ出すことで恋路とザ・タイガーに不必要な時間を作らせ、応援の到着まで持つ可能性を高める。


 唐突に逃げ出した加原を見て、恋路とザ・タイガーはしばし動きを止めていた。面食らっていたのか、判断が遅れたようだ。投げ出した仙気の針は全て回避され、防がれてしまったが、一定の効果は見られたと加原は逃げながら満足する。


 加原と恋路、ザ・タイガーの間に距離が生まれ、流石にこれですぐには追いつかれないと加原が思った時になって、ようやく恋路とザ・タイガーが動き出した。それを振り返って確認し、加原はもう少しだけ時間を稼ぐために、路地を通って逃げようかと考える。


 仮に二人の方が加原よりも速く動けても、狭い路地に入り込んでしまえば、その速度を生かすことなく、加原はもう少し逃げることができるはずだ。


 その思いから加原は方向転換したが、恋路とザ・タイガーの脚力は加原の想定を容易に超えていた。


「逃げるなよ」


 方向転換した加原が路地に入り込む直前、恋路が加原の肩を掴んで、加原の動きを止めた。一般人が走ったら、最低でも十数秒はかかる距離だ。その距離が一秒やそれに満たない時間で埋まるとは到底思えない。


 しかし、恋路は加原の背後に立っていた。恋路だけではない。ザ・タイガーもそこにはいる。


 その速度に加原が面食らっている間に、加原の身体は宙を舞っていた。何が起きたか理解するよりも先に、眼前に地面と恋路やザ・タイガーを発見する。恋路は腕を大きく振り上げた体勢で立っていて、緩やかに放物線を描きながら、地面に向かっていく加原に目を向けてきている。


 投げ飛ばされた。理解と同時に困惑が膨らみ、加原は頭の上に疑問符を浮かべながら、空中で体勢を整えた。


 投げ飛ばされたこと自体にも驚きはあるが、そもそも、投げ飛ばす必要性があるとは思えない。加原の肩を掴んで、完全に不意を突いたのだから、恋路は何とでもできたはずだ。


 それなのに恋路は投げ飛ばすことを選んだ。そのことに疑問を覚えながら、空中で体勢を整え終えた加原が地面に着地した。


 その瞬間、加原の足元に冷気が漂い、気づいた時には加原の足を氷が覆っていた。


「これで逃げられないな」


 恋路とザ・タイガーが加原に近づいてくる。その姿を見ながら、加原は時間稼ぎの最初の一手は失敗に終わったことを悟り、次の一手に移ることを決意した。

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