亀が亀を含んで空気が淀む(11)
何のことはない。思い返してみたら、すぐ分かる。
迫る波に美藤と浅河が仙気を飛ばす前――美藤は咄嗟にカミツキガメを投げ捨てていた。もちろん、今は非常事態だ。アメンボをどうにかしないと、この場の全員が死んでしまう。そのことは分かっている。
――だが、そうだとしても投げ捨てることはないじゃないか、と幸善は思った。脇に置くくらいの丁寧さを持ってもいいじゃないか。そうしたら、カミツキガメは水面に叩きつけられた衝撃で目覚めることもなかったはずだ。
そのように思っても、既に投げ捨てられ、カミツキガメは目覚めてしまった。このままだとカミツキガメに逃げられる。
―――と頭の中で思いながら、幸善は次にどう動くべきか考えていた。
二兎を追う者は一兎をも得ず――とは言うが、今の幸善に片方を選ぶ権利はない。カミツキガメの捕獲は仕事であり、アメンボの捕獲は生死に関わることだ。生きることは大事だが、その結果、この場所に来た目的を逃がしたならば、この場所で死にかけた意味がない。
ただ池で遊んでいたら、急に空気が薄くなって死にかけました――という阿呆な報告と、結果だけ見たら、何一つ変わらない。そのことを幸善は耐えられない。
完全に見失ってしまったアメンボの行方は気になるが、今はそこにいるカミツキガメを逃がさないことが先決だ。幸善は優雅に泳ぐカミツキガメに飛びつくように走った。
池の周囲の空気は刻々と薄くなっている。たった少しの距離でも、走った途端に幸善の呼吸は荒さを増す。いつもなら、何でもない距離でも、今は持久走でもしているように苦しくなる。
しかし、それはカミツキガメも同じだったようだ。遠くから見た時には、優雅に泳いでいるように見えたカミツキガメも、近づいた途端、動きに必死さが見えた。金槌の人間が溺れる直前のようだ。
カミツキガメの捕獲――文字にすると難しく思えるが、必死にならないと逃げられないカミツキガメの捕獲は想像以上に容易かった。幸善は泳いでいるカミツキガメを、ヒョイと持ち上げる。
「逃げる、なよ」
途切れ途切れになりながら、持ち上げたカミツキガメに声をかける。カミツキガメは既に疲労が溜まっているのか、幸善が持ち上げたことにも、声をかけたことにも反応せず、ただだらんと首を伸ばしている。
カミツキガメの捕獲には成功した――となると、次はアメンボの捕獲だ――幸善が視線をさっきまでアメンボがいた美藤達の前に戻そうとする。
その前に――だらんと伸びていたカミツキガメの首が、不意に左右に動いた。その動きに視線を戻した直後、カミツキガメの顔が幸善に向こうとする。
その瞬間、幸善の頭の中で相亀の最期が思い浮かんだ―――
「見るな!?」
相亀りたくない――その一心で幸善がカミツキガメの頭を前に向かせようとした。咄嗟に左手を振るって、カミツキガメの頭をはたくような形で、こちらを向かせないようにする。
その時――風が吹いた。カミツキガメの頭をはたこうと、振るった幸善の左手の軌道そのまま、風が吹き抜けた。風は強く、池の水が舞い上がっている。
その光景に他の誰でもなく、幸善が一番驚いていた。その時の感覚は忘れもしない、
驚いた顔のまま、幸善が左手を見る。あれから何度やっても、一度も吹かなかった風が今は吹いた。薫との戦いを再現しても、戦車を目の前にして命の危険を感じても、起こせなかった風だ。
それがどうして今は吹いたのか――幸善は混乱する頭で考え、忘れていたことを思い出す。
「そうか…まだ一つだけ…」
そう呟いた直後だった。幸善の起こした強風に、幸善と同じくらいに面食らっていたカミツキガメが、急に悶え始めた。
「あ、ああ!?どうした!?」
幸善が心配して叫んだ瞬間、カミツキガメの口がぽかんと開き、その奥から人間の手が飛び出してくる。
「手!?」
幸善が驚いている間に、手はもう一本出てきて、カミツキガメの口を掴んだかと思うと、そのまま勢い良く、口の中に口を引っ張り出す。
(裏返る――!?カメが裏返っちゃうから――!?)
幸善が心の中で意味の分からないことを連呼した直後、カミツキガメの口の中から勢い良く、人間が飛び出してきた。
それは良く見てみると、少し前に亡くなったはずの相亀だった。
「よっしゃー!!脱出できた!!」
全力で喜ぶ相亀をぽかんとした顔で眺めてから、幸善はカミツキガメに目を向ける。相亀が飛び出した衝撃なのか、カミツキガメは白目を剥いて気絶している。
「何か…捕獲できた…?」
状況をうまく飲み込めない幸善が混乱している中、美藤達が幸善のところまで歩いてきた。浅河は喜ぶ相亀を冷ややかな目で見ており、皐月は空を見上げている。その二人の前で手を合わせた美藤は困ったような顔で、幸善に声をかけてくる。
「あのさ、頼堂君」
「どうしたの?」
「これ、さっき急に風が吹いた瞬間、飛んできたんだけど…」
そう言って美藤が手を開くと、その手の中にアメンボがいた。生きているのか死んでいるのか分からないが、アメンボは一切動く気配がない。その姿を見て、皐月がさっきから空を見上げていることを思い出し、幸善は同じように空を見上げていた。
風の檻――そう感じた強風が綺麗に消えていた。気づいたら、呼吸も落ちついている。
終わった――のか――幸善は実感の湧かない終わりに複雑な顔をする。
あまりに突然――それも呆気なく――終わってしまったことに、さっきまでの緊迫した空気は何だったのかと言いたくなる。死んだと思った相亀も、当たり前のように生きているし、もうどこに感情を置いたらいいのか分からない。
取り敢えず、カミツキガメの捕獲とアメンボの報告は仙人としての仕事だ。それを完遂する必要があるのか――幸善は喜ぶ相亀を見てから、自分達の荷物に目を向ける。
「取り敢えず、相亀の鞄にゴミをぶち込もうか」
「鬼畜みたいな発想は継続中なんだねぇ」
浅河の呆れた視線が幸善に突き刺さった。
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