亀が亀を含んで空気が淀む(10)

 水面を滑るアメンボ―――空気を奪っている犯人―――真相に辿りついた幸善の視界から、既にアメンボはいなくなっていた。微かに残った水紋から、アメンボの向かった先を想像し、幸善はカミツキガメを譲り合う美藤と浅河に目を向ける。


 ここでアメンボを見失えば、幸善達の死は確定する――幸善は必死に手を伸ばしながら、そこに立つ美藤と浅河に向かって声を出した。


「それが、妖怪だ!!」

「え?何?」

「何のこと?」


 美藤と浅河が幸善を見るが、その間にいるアメンボには気づいていないらしい。不思議そうに幸善を見るばかりで、水面に目を落とすことが一切ない。


(気づいていない――!?このままだと――!?)


 焦った幸善は『アメンボ』という言葉よりも先に手を動かしていた。わざわざ仙気を移動させ――瓦を割るようなイメージで――水面に向かって手刀を打ち下ろす。


 瞬間――幸善の目の前に水柱が立った。衝撃は静かだった水面を、数十センチの高さの波として伝わり、幸善の背後にいた皐月は軽く足を攫われそうになっている。


 迫る波を見つめながら、美藤と浅河は驚いた顔をしていた。アメンボの存在を知らない二人には、幸善の行動の意味が分からないはずだ。もしかしたら、酸素不足で幸善の気が狂ったと思っているかもしれない。

 もしそうだとしても、その誤解を解く時間は幸善にはなかった。美藤と浅河に向かう波を指差し、幸善は必死に訴えかける。


「そこに、アメンボが、いるはず、だから!!それが、妖怪!!」


 ふくらはぎの中ほどまでの深さしかない池だが、幸善の起こした波は余裕で膝を押すほどの高さとなっていた。その高さの波を二人は睨みつけ、そこに紛れ込んだアメンボの姿を見つけ出そうとしている。


 しかし――アメンボはあまりに小さい。意識しないと存在に気づけず、意識していても姿を見逃すくらいだ。波の中に紛れ込まれると、完全に見失うかもしれない――が、その可能性はないはずだと幸善は思っていた。


 あのアメンボが池の水の中で、どれくらいか分からない時間を過ごせるとは思えない。早々に酸素を失い、死んでしまうはずだ。波に紛れ、水中に逃げ込むという選択肢はないに等しい。


 ――と思ってから、幸善は気がついた。池の周囲の空気が薄くなっている――その事実から分かる一つの真実に。


 あのアメンボが酸素を奪っている犯人なのだとしたら、あのアメンボは自分の周囲から酸素を奪っていることになる。そうなると、あのアメンボも幸善達と同じように苦しみ、死んでいくはずだ―――


 が、そうではないとしたら――幸善は気づいた可能性に表情を歪める。


 アメンボは空気そのものを操っているのかもしれない――それが自分の周囲限定なのか、他に条件があるのか、その部分は分からない。


 ただそうだとしたら――幸善の行動は恐ろしく愚かになる。愚かで救いの言葉もないほどだ。


 水中で呼吸ができるアメンボ――その可能性に幸善は気づいていなかった。


 苦々しい顔をする幸善の視線の先で、美藤と浅河が集中している。そこにアメンボがいることは間違いないが、それが水上なのか、水中なのかは分からない。


 ああやって探しても、見つからないかもしれない――そう恐れる幸善の視線の先で、美藤が咄嗟に動き出した。カミツキガメを投げ捨て、迫る波に手を伸ばす。


「いた!!そこ!!」


 声を荒げ、美藤は掌から仙気を飛ばした。細かに飛んでいく仙気が、無数の小さな穴を波に開けていく。

 その隙間を縫うように、アメンボが器用に移動している様を、浅河も見つけていた。


「それか!!」


 美藤に続き、浅河も手を伸ばす。美藤と違い、大きく固められた仙気を、水上を素早く滑るアメンボに向かって放つ。


 ボン―――電子レンジでの調理に失敗した時に良く聞く爆発音が周囲に響く。起きていた波はその爆発で打ち消され、再び立った水柱を中心として、四方に小さな波を作り出していた。


 その中でアメンボは仕留められたのか――その姿は確認できなかったが、空を見たことで幸善は分かった。


 アメンボはまだ生きている――そのことを教えるように、池の周囲の風は強く吹いている。


 妖怪――その事実が幸善に殺すことを躊躇わせるが、せめて、意識は奪わないと、このままだと幸善の方が殺される。


 見失ったアメンボをまずは見つけ出さないと――そう思い、池に目を戻した幸善が信じられない光景を目撃した。


 スゥーと音を立てることなく、小さな波の間を静かに移動している――その姿を見た瞬間、酸素不足で鈍り始めていた幸善の頭が、殴られたように覚醒した。


「カメ!?」


 カミツキガメが優雅に逃走中だった。

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