亀が亀を含んで空気が淀む(9)

 アメンボ―――ようやく発見したその生物に幸善は頭を悩ませていた。


 アメンボは確かに生物だ。紛う方なき生物だ。彼らはみんな生きている。生きているから、困っているのだ。

 確かにアメンボが妖怪なら、周囲の変化が緩慢で、幸善が悩んでいる間も酸素はなくなることなく、荒い呼吸を維持している理由にも説明がつくのだが―――


 本当にそれでいいのか――その迷いがどうしても消えない。


 妖怪――何かしらの生物の姿をした存在―――その定義的には虫の姿をした妖怪も存在するはずだ。空を舞う蝶、地べたを這う蟻、水の上を滑るアメンボ――どのような姿をしていても不思議ではない。


 しかし―――幸善はアメンボが妖怪だと断定することがどうしてもできなかった。それは今までに、植物や人型ヒトガタのような確認された個体数の少ない妖怪に逢ってきた幸善でも、虫の妖怪には逢っていないから――みたいな頭の固い理由ではない。


 もっと単純に、幸善はアメンボが妖怪かどうか分からなかったのだ。


 だって、。当たり前のことだが、それこそが真理であり、人の命にも関わる重大な問題だ。


 妖怪の声を理解できる――その判断基準しか持たない幸善には、喋らない妖怪を妖怪と判断する方法がない。カミツキガメは正にそうだった。


 ここは美藤達の誰かに来てもらう必要がある――と思って振り返りそうになるも、幸善は寸前のところで踏み止まった。


 アメンボは小さい。当たり前のことだが、とても小さく、ただ歩いているだけだと見つけることは難しい。


 もしも幸善がこの場を離れて、このアメンボを見失ったら――幸善達はご臨終。以上で『Q』は完結です。ありがとうございました――となりかねない。

 アメンボに殺された人間も、アメンボに終わらされた物語も、どちらも格好がつかない。幸善達が生きるために――何より、『Q』が終わらないために――幸善はアメンボを捕捉し続けなければいけない。


 幸善はアメンボに視線を向けたまま、美藤達をこの場所に呼ぶことにした。誰か一人でも来てくれたら、そのアメンボが妖怪かどうか判明する。

 あとはアメンボに攻撃をやめさせれば、ミッションコンプリート。無事に殉職者一名で仕事が終わる。


「美藤さん、浅河さん、皐月さん!!」


 幸善が名前を呼ぶと、カミツキガメを貧乏神よろしく押しつけ合っていた美藤達がピタリと止まった。三者三様の眼差しが幸善に向けられる。


「妖怪候補、がいたから、誰か確認を、頼む!!」


 幸善の懇願を聞いた美藤達が互いに見合っている。それは歴戦の勇士が視線だけで牽制し合っているようだ。


「私は、カメ持ちが、あるから」

「私は、池に足を、取られてるから」

「私は、面倒だから」

「ごめん!!誰もいけない!!」

「その結論に、納得できる、理由あった!?」


 ただでさえ荒い呼吸の中で、幸善が必死に叫んだ。まだ美藤の理由は辛うじて納得できるレベルだったが、浅河の理由はさっきまで一言も言っていなかったことだし、皐月の理由は理由にもなっていない。


 これが相亀だったら、幸善はきっと睨みつけていたところだが、相手は美藤達三人である上に、アメンボから目を離せない状況だ。何とか叫びだけで来てもらわないといけない。


 ここは物で釣るか――と幸善が本気で考え始めた時、何やかんやで決まったのか、皐月が幸善の近くまで移動してきていた。


「おまたせー」


 荒い呼吸の隙間に、間延びした言葉を滑り込ませるように、皐月が声をかけてくる。幸善はアメンボが消えないように見つめているので、その時の皐月の表情は分からないが、恐らく無表情だろう。


「それを、確認して、ほしい」

「どこ?」


 幸善が自分の視線を示すように、指を池にまっすぐ伸ばす。そこでは小さな水紋を作りながら、アメンボが行ったり来たりしている。


「アメンボ?」

「可能性はないか?」

「十分ある」


 揶揄われるかと思った幸善だが、そこは流石に仙人らしく、特に否定されることもないまま、皐月が幸善の隣まで歩いてきて、急にピッタリと幸善に抱きついてくる。


「いや、何して、るんだよ…」

「あ。流石に、慌てない…」

「それは、カメの、エサの、方だよ」


 相亀のように狼狽えない幸善にガッカリしたのか、皐月はすぐに幸善から離れ、幸善が頼んだ妖気の有無を調べてくれるようだった。アメンボが逃げ出さないように、適切な距離を保ちながら、皐月が一歩二歩とアメンボに近づく。

 そのまま、ピタッと凍結したように動きを止め、掌をアメンボに向けていた。ここから、数秒間――時間が停止してしまったように、静かな時間が流れる。


「多分、妖怪――」


 ようやく口を開いた皐月が、微かな声で呟いた。幸善は咄嗟にアメンボの使っている妖術を止めさせようとする――が、その前に気になることがあった。


…?」

「いや、ちょっと、こういうの、得意じゃない、から」

「いや、なら、あの二人が、来いよ!?」


 思わず叫んだ幸善の声が池の中を響いたように感じられた。それがまるで合図だったように、視線の先にいるアメンボが猛スピードで動き出す。


「あ。待て!?」


 逃げるアメンボに目を向けながら、咄嗟に幸善が叫んだ時には、アメンボの姿は視界になく、微かに水紋だけが残っている状態だった。

 その先には、カミツキガメのお守りをしている美藤と浅河が立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る