亀が亀を含んで空気が淀む(8)
空気がなくなる前に―――幸善達の視線は池の中をさまよい、そこにいるはずの妖怪の姿を必死に探していた。呼吸は荒く、少しずつ息苦しさを覚えているが、幸いなことに意識はまだしっかりしている。判断能力が低下する前に発見しないと手遅れになる。
幸善は抱えているカミツキガメに目を向けた。池にいる妖怪は探すのに、そのカミツキガメの存在は邪魔だが、カミツキガメを逃がすわけにもいかない。そのカミツキガメこそが、幸善達の目的であり、今はボーナスステージだ。ボーナスを手に入れるために、基本給を捨てる奴はいない。
「なあ、誰か、カメを、預かって、くれないか?」
幸善がカミツキガメを美藤達に差し出す。カミツキガメの首は地面に向かって、ぐったりと伸びている。
その首が気持ち悪いのか、カメを触りたくないのか、急に目覚めて相亀るのが嫌なのか、美藤達はなかなかカメを受け取ってくれない。
「いや、妖怪を、探すから、カメを預かって」
「いや、でも、起きたら、吸い込まれるし」
「噛まれる、可能性も、あるよね」
「危ない」
「それ以上に、危ない状況、になっているのに?」
酸素消失までのタイムリミットが迫る中、カミツキガメに指を持っていかれることなど、些細なことだと幸善は思うのだが―――いや、些細なことではない。生き死にと比べると、些細なことではあるのかもしれないが、最初から死ぬ気がない人間からすると、指の有無は一大事だ。そこで渋るのも仕方がない。
だが、死ぬ気がなかろうと死ぬ瞬間は死ぬ。特に
幸善は恩着せがましく粗品を渡すように、カミツキガメを美藤達に突き出した。美藤達は本当につまらないものを受け取りたくないようだが、ここまで突き出されて無視できるはずもない。代表して美藤が渋々受け取っていた。
「服に臭い、つかないよね?」
池に入る時も同じことを言っていたので、その時に相亀に言われていたことを、今度は幸善が言ってあげる。
「慣れれば、分からないから」
「さっきと、同じことを、言われた!?」
美藤はショックを受けているが、カミツキガメは既に美藤の手の中にある。美藤が浅河や皐月を見ても、一切二人が手を伸ばさないところを見ると、カミツキガメが手渡されることもないだろう。
ご愁傷様――物理的に死んだ相亀に続き、精神的に死んだ美藤に、幸善は手向けの言葉を送っていた。もちろん、心の中で。
(さて…)
気分一新――幸善は池の中に繰り出す。
カミツキガメ以外の妖術を使う妖怪を探す――と考えれば考えるほどに、無理な気がしてくるが、やらなければ終わるだけだ。いろいろと。
少なくとも、相亀と同じ墓に入る――ことはないと思うが、同じ報告書に殉職者として載りたくないので、ここは何としても妖怪を見つけないと。
その気持ちから歩き出した直後、幸善の一歩目を阻むように、幸善の鼻が切れた。鋭い痛みに幸善は涙を浮かべながら、鼻を手で押さえる。
(何だよ、急に!?)
この非常事態に不幸が重なるな、と幸善は怒鳴りたくなる。今は妖怪探しに集中したいのに、この切り傷がノイズになってくる。集中をかき乱すようで、凄く邪魔だ――と幸善は思ってから、気がついた。
さっきから、これと同じような切り傷が何度もできている。浅河の指に、幸善の手に、美藤の頬に。
もしかして、これも妖怪の攻撃なのだろうか――もしそうなら、この攻撃は攻撃と呼ぶには弱すぎる気がする。
それだけではない――
幸善達が風の檻に気がついたのは池を出る時だ。そこから、空気が薄くなっていることに気づくまでに一分から二分、そこから、現時点までにまた一分――時間の経過はあるのに、様子が一変する気配はない。
幸善は不意に空を見る。風の檻は変わらずあるが、それがいつからあるのか、幸善は全く把握していない。ずっと池を見ていたから、いつから風が吹き始めたのか、全く意識もしていなかった。
仮に池に入った段階から、その風の檻ができようとしていたら――不意に思い至った可能性が幸善の中に一つの仮説を作り出す。
この妖怪の力は広範囲をカバーできるほどに強く見えるが、実際の変化は緩慢で、即効性はないに等しい――そうだとしたら、その妖怪はあのカミツキガメよりも、もっと弱々しい可能性がある。
幸善の視線が空から池に戻る。その時、幸善は水紋に気づいた。
(何かいる――!?)
幸善の視線が水紋を辿るように動き、そこの潜んでいた小さな生物に目を止める。
「アメンボ…?」
水面を滑る一匹のアメンボが小さな水紋を作っていた。
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