亀が亀を含んで空気が淀む(7)
風はあくまで空気の流れだ。決して目に見えるものではない――だが、風が池を取り囲んでいることが、風の壁ができていることが分かる。それは不思議なことでもなければ、錯覚でもない。
単純に見えないはずの風が目に見えていたのだ。空気の層がレンズのようになっているのか、その部分で光が屈折しているようで、池の周囲の景色が歪んで見えていた。それが風の吹くままに揺れて、その部分を風が吹いていると目視で分かるようになっていた。
その景色の不思議さよりも、幸善達の視線は池の中に向いていた。不思議な景色を見るために旅行に来たのなら、その景色を嬉しそうに見つつ、写真の一枚でも撮ったのだが、今はそれどころではない。
歪んで見えるほどの密度で風が吹く――そのような自然現象は聞いたことがない。自然現象でないとしたら、この現象を起こしている犯人がいるはずだ。このように不思議な現象を起こす犯人が。
その犯人が誰かは分からないとしても、どういった相手か分からない幸善達ではない。その相手の存在に気づいた段階で、起きている現象の理由についても想像がついた。
「もう一体って…」
幸善の呟きに表情を強張らせた浅河が呟いている。幸善の手の中では、カミツキガメがぐったりと首を伸ばしている。
このカミツキガメは何かできる状況ではないが、これだけの不可思議現象を起こせるとしたら、カミツキガメと同じ妖怪しか他には考えられない。それは幸善だけの考えではなく、美藤達も同じ考えだったようで、幸善の言葉に否定の言葉を投げかけてくることはない。
それよりも『何かの妖怪が、一定の規模の池を取り囲むように、風の壁を作り出した』という事実から考えられる理由に気づき、全員が顔を強張らせていた。
風の壁―――さっきから、そのように表現しているが、それは俯瞰的に見た時の譬えであり、当事者である幸善達の感じ方からすると、最適な表現は他にある。
風の檻―――池の中に幸善達を閉じ込めるための牢獄―――この空間が幸善達に与えてくる閉塞感を表現するには、それらの表現の方が適切だ。
そして、その閉じ込められているという感覚が錯覚ではないとしたら――そう考える前から、理由の見当はついていたが、そう考えることで確信できた。
この妖怪は幸善達に何らかの攻撃をしてきている。理由は分からないが、この空間の中で幸善達を倒そうと――もしくは殺そうと――してきている。
幸善が一瞬思い当たり、カミツキガメに目を落としてから、今度は池の中を見回していた。理由は他にも考えられるが、この状況で最も高い可能性が、このカミツキガメ絡みの理由だ。
例えば、カミツキガメの番いとなる妖怪が池にいて、カミツキガメを取り返すために幸善達を攻撃してきた――とか、カミツキガメを捕獲したことで、もう一体の妖怪の恨みを買ったというものだ。
その場合、同じカミツキガメが池にいる可能性が高いが、カミツキガメが二匹逃げ出したとは聞いていない。元から自生していた可能性もあるにはあるが、逃げ出したカミツキガメが目撃されるくらいには池に人が訪れているはずだ。そこにカミツキガメが自生していて目撃されていないわけがないし、そのまま放置されているわけもない。
それ以外の動物――と思いながら、幸善は池の中を見回しているのだが、さっきまでカミツキガメを探していたから、この池にどのような生物がいるかは大体分かっている――というか、生物らしい生物はほとんど見ていない。
池にいる生物としたら、魚とか――幸善が逢ったこともあるカエルとか――その辺りになると思うが、カミツキガメを探している過程で、それらの生物を目撃した記憶は幸善にはない。
他の三人はどうだろうか――そう思った幸善が池の中を見回すことをやめて、美藤達に目を向ける。美藤達は幸善と同じことを思ったようで、幸善と同じように池の中を見回している。
「なあ、さっきまで、他に動物を、見なかったか?」
「いや、見た覚えは、ないけど…」
「私も、何も見てないと、思うな…」
「右に、同じ」
やはり、美藤達も何も見ていない――とすると、この池の中のどこかに隠れているのか――もしくは池の外にいるのか―――そう考えながら、幸善は異様にまとまらない頭で何とか考えようとする。
不意に、幸善は自分の手を見た。そこにできた切り傷は何が原因で起こったものか――と考えようとして、幸善は顔を上げる。
もしも、あの風の壁が想像通りの風の檻なら、これは幸善達を池の外に出さないための物のはずだ。池の中に閉じ込めて、閉じ込めた妖怪は何をするか――考えるまでもなく、その答えは分かる。
それなら、ただ風の檻の中に閉じ込めて、何もせずにいるはずがない。既に行動に起こしていると考えるのが妥当であり、思い当たる変化は一つある。
「まさか、攻撃が、始まっている…!?」
幸善は呟きながら、自分の手に再び目を向けていた。そこにできた小さな切り傷は攻撃と呼ぶには心許ないが、原因不明である以上、攻撃である可能性は捨て切れない。
今は軽い傷で済んでいるが、最終的には致命傷となるような傷を負わされる可能性もある――と考えながら、幸善は美藤達と合流するために歩き出していた。
情報の共有――それに非常時の対応――そのどちらもするためには合流するのが一番だ。肩で息をしながら、幸善は重たいカミツキガメを抱えて、美藤達のすぐ近くまで移動する。
三人も緊張からか、少し荒い呼吸で辺りに警戒の目を向けている――と一瞬思ってから、幸善はようやく自分達の変化に気づいた。
「何か、さっきから、呼吸がしづらく、ないか?」
「え?ああ、言われてみたら、確かに、そんな気がする」
美藤は荒い呼吸の隙間に、言葉を挟み込むような形で、途切れ途切れになりながら答えてくる。その様子に幸善が一種の確信を持った瞬間、浅河も幸善の考えた可能性に気づいたようだ。曇った顔で幸善に目を向けてくる。
「まさか…これも…?」
「多分ね…」
そう答えながら、幸善は苦々しい顔で池の中に目を向けていた。
未だに妖怪がどこにいるかは分からない――だが、攻撃は始まっている。そして、それは切り傷よりも致命的で、幸善達の命に届こうとしている。
荒い呼吸――風の檻――苦々しい顔をした幸善や浅河に、美藤達も同じ考えに至ったのか、普段は無表情な皐月でさえも、焦った表情をしている。
「もしかして、空気が…?」
「間違いなく、薄くなっている」
やがて、呼吸ができなくなる――その言葉は口に出さず、幸善は必死に妖怪の姿を探していた。
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