星は遠くで輝いている(32)
幸善の前にダーカーがコップを置いた。プラスチック製のコップで、幸善とダーカーの前に一つずつ置いてから、ダーカーはテーブルを挟んだ向かい側に座った。
そのことに礼を言いながら、コップを覗き込み、幸善はコップを外からもう一度眺めた。
色は青色。薄らと中に入った物が透けて、少し違う色に見える部分はあるが、基本的にはそのはずだ。
それを確認してから、幸善は再度、コップの中を覗いてみて、何とも言えない表情になった。
幸善の前では、それと同じ物と思われる飲み物をダーカーが口にしているところだ。
「ラスさん?」
「どうしたの?」
「これって何ですか?」
「見ての通り、トマトジュースだよ」
至極当たり前のことを言うように言ったダーカーの言葉の通り、至極当たり前にトマトジュースであることは幸善も分かっていた。
分かっていたが、その上で何であるかという質問をしたので、その問いに対して、求めていた返答はそれではない。
「いや、何でトマトジュースなんですか?」
客人に飲み物を出す際に、それがトマトジュースでなければ失礼になる、という話は聞いたことがない。
ここが日本ではないことを考慮しても、水かコーヒーかというところだろう。
好き嫌いの分かれるコーヒーを避けたとして、幸善は水を出されて怒り出すほどに器の小さい人物ではない。飲み物を出してもらっているだけありがたいと思っている。
それを気にする必要はなかったのだが、いらぬ気を回させてしまったのだろうかと幸善が戸惑いながらも、少し気にした様子で聞くと、ダーカーから思わぬ返答があった。
「冷蔵庫を開けた時に一番手前にあったんだよ」
「はい?」
「水より手前にあったんだよ。それを退けて、その奥から出すのは面倒だろう?それなら、トマトジュースでいいかと思ったんだ」
ちょっと何を言っているのか分からなかったが、あまりに分からないことばかりだったので、何を言っているのかと聞き返す気にもなれなかった。
ダーカーはそういう人であると考え、すぐに納得した方が結果は早そうだ。
「あれ?もしかして、トマト、ダメだった?」
「いえ、そういうわけでは…」
トマトジュースであることに驚いただけで、トマトジュースが嫌いなわけではない。飲めないというわけではないので、幸善は戸惑いを持ちながらも、そのコップを仰いだ。
想像した通りのトマトの風味が口の中に広がっていく。トマトジュースの味はトマトジュースの味で、日本も海外も違いはないようだ。
「あの…ところで俺と話したかったことって何ですか?」
人質のようにチケットを見せられながら、テーブルに向かい合って座ることになった経緯を思い出し、幸善はそのように聞いていた。
ダーカーは空になったコップをテーブルの上に置いてから、幸善の目をまっすぐに見つめてくる。
「君は本当に人と妖怪が仲良くできると考えているの?」
ダーカーのまっすぐな質問に幸善はゆっくりと頷いた。
それは幸善が仙人になった理由であり、仙人を続ける上での目標だ。
「妖怪を殺さない。それを貫くと?」
「もちろん」
幸善が強い意志を持って頷くと、ダーカーはしばらく幸善の顔を見つめてから、小さく溜め息をついた。
「なるほどね。本当に決めているみたいだ。君みたいな子は初めて見たよ」
「それ。前にも言ってましたよね。他にもいたけど、貫く人は珍しいって」
「うん。とても珍しいよ。何だったら、現場に出るような仙人にはいなかったね」
「そうなんですか?妖怪を殺さない仙人くらいなら、俺以外にもいそうなのに」
「始まりはそう思う人も多いよ。どんな害獣でも殺さずに対処する方法を求める人のように、妖怪を殺さないで対処する方法を考える仙人はたくさんいるんだ。でも、そういう人は大体二つの道を辿るんだ」
ダーカーが幸善の前で指を二本立て、ピースサインを作った。その表情は柔らかい笑みを浮かべているが、それは明るい笑みではない。
「一つは諦める。諦めて、殺すことを選ぶか、殺せない人は後方に回って現場に出なくなる」
「もう一つは?」
「悩む必要がなくなる」
柔らかい口調でそう言いながら、ダーカーはピースサインの片方を折って、人差し指だけが残った。
それが何を示しているのか分からないほど、幸善は馬鹿ではない。
「だからこそ、多くの人は諦めるんだけどね。自分も同じ道を辿りたくはないって。だから、現場で戦って、それも人型と戦って、その考えを変えない君はとても珍しい。話に聞いた時から興味があったんだよ」
そう言ってから、ダーカーは再び立ち上がり、空になったコップにトマトジュースを注ぐために、キッチンの方に歩いていった。
それを見送りながら、幸善はダーカーが何を話そうとしているのか考えていた。ダーカーの口調は穏やかなものだが、その内容は幸善の考えを暗に否定しているように思えるものだ。
その考えを続けていると、いつか死ぬぞと言われているように幸善は感じる。
そう思っていたら、キッチンの方からダーカーの声が聞こえてきた。
「俺はね。隔たりが嫌いなんだよ」
「隔たり?」
その唐突な言葉に幸善が不思議そうにしていると、コップを持ったダーカーがテーブルに戻ってきた。その表情はさっきから変化のない、柔らかな笑みの浮かんだものだった。
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