熊は風の始まりを語る(17)
「ずっと考えていたんだ」
愚者の語りは唐突に始まったが、既に久遠はその奇行にも慣れていた。唐突に語り始めることもあるだろうと思い、何を話すのだろうかと隣にいる愚者の顔を見やる。
「自分がこれまで何を考えていたのか。漠然とした気持ちとは向き合っていても、その気持ちが生まれた理由まで、自分自身で意識したことがなかったんだよ」
「怒っているとは分かっても、何で怒っているのかまでは考えなかった…みたいなこと?」
久遠の確認に愚者が首肯する。久遠も同じく感情先行型の人間なので、その気持ちは分からなくもない。
「だけど、それを質問されて、初めて自分が何を思って、そのように感じたのか不思議に思って、それを理解するために考え始めたんだ」
「それで子供みたいに、いろいろと質問し始めた」
「そう」
久遠に向けられた愚者のなぜなぜ期を思い出し、久遠は苦笑を浮かべた。本来なら自分の頭の中で完結させることなのだが、愚者にはそれができなかったようだ。
久遠という壁に質問を繰り返し、久遠という壁だからこそ生まれた反射と向き合いながら、愚者は自分の心と向き合い続けた。
「だけど、それももう終わったんだ」
その呟きは自然と予想ができた。久遠は小さく頷き、何となく、少しだけ寂しい気持ちを感じる。
「生きる理由の話をしたけど、生きる理由は特になかったんだ。ずっと。思い返してみたら、ただ日々を積み重ねていたら、それが今に繋がって、結果的に生きていただけで、そこに行きたいという気持ちが介入したことはなかったんだ」
「だから、理由を探した?」
「そうかもしれないって思ってた」
続ける理由と終わらせる理由。何事にも絡んでくる二つの理由を愚者は命の中で探した。
ただその返答は曖昧で、久遠はゆっくりと首を傾げた。
「思ってた?」
「そう。生きる理由がないから終わらせようと思った。最初はそう思い込んでいたけど、それに納得し切れない自分がいて、それが気持ち悪かった」
「それ以外の理由があったってこと?」
「そう。ちゃんと全部、理由がないことはないって気づいたんだ。そのきっかけが――」
そう呟き、愚者が久遠を見た。その視線に縫いつけられたように、久遠は愚者の瞳から目を逸らせなくなる。
「君だよ」
「私?」
「そう。久しぶりに自分達以外の誰かと過ごして、そうして感じる時間に触れて、そこでようやく思い出したんだ。自分がどうして、この生について、どうしようもない絶望を懐いていたのか」
久遠の頭の中でいつかの愚者の疑問が思い浮かぶ。
絶望は愚者にとって日常的にそこにあるもののようだった。
「本当はね。嫌だったんだよ」
「嫌?何が?」
「終わりがあること」
それまでの愚者の発言と矛盾する言葉に、久遠は目を見開いていた。
「誰かが死ぬことも、何かがなくなることも、本当は嫌だったんだ。だけど、それは絶対になくならない。他の全てがなくなっても、存在するものがなくなるという事実だけはなくなってくれない。それが嫌で、それを見ることも、待つことも嫌になった」
「でも、自分が終わらせようと思ったんだよね?何で?矛盾してない?」
「ううん。してないよ。だって、自分で終わらせたら、もう他の終わりは知らなくて済むでしょう?」
日常の中の何かを変えることが難しいと愚者が語ったように、日常の中の何かを変えることが愚者は嫌だった。
だが、それが絶対に起こることだと理解しているから、その変化から少しでも遠ざかる方法を考えた。
そして、それがその変化の前に自分自身を終わらせるという方法だった。
「それに気づいて思ったんだよ」
そう呟いてから、愚者が次に何かを言うために動かす口を見て、久遠は途端に恐ろしくなった。
何となく、想像してしまった次の言葉が愚者の未来を決定づけるようで、それを聞きたくなかった。
しかし、それは杞憂だった。
「何て、愚かだったんだろうって」
「え…?」
「だって、きっとこの気持ちは誰にでもあるものなんだよ。誰にでもあって、自分以外の皆が思うことなんだから、そこから先にいなくなったら、そこに残った皆を同じ気持ちにさせるんだ。その当たり前に気づかなかったなんて、本当に馬鹿だよ」
それは当たり前のことだが、当たり前のこととして愚者が持っていなかった考えで、それを愚者が口にしたことが久遠は嬉しかった。
自然と笑みを浮かべかけ、咄嗟にその笑みを噛み殺す。そんな笑みを見せたら、愚者に何を言われるか分かったものではない。
そう思っていたら、愚者が久遠を見て、いつもとは少し違う笑みを浮かべた。
「それに気づいたら、目を瞑らずにちゃんと皆と向き合いたいって思ったんだ」
「向き合う?」
「そう。それで君に聞いて欲しい話があるんだよ」
愚者が自分から聞いて欲しいという話に、久遠は疑問こそあったが、それを聞きたくないと思う気持ちは芽生えなかった。
寧ろ、愚者が自分から前向きに話したいと言ってくれることが嬉しかった。
「何?何でも聞くよ」
「実はね。君には言っていなかった秘密があるんだ」
そこから愚者が話し始めたのは、自分達の正体に関する話だった。
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