断じて行えば鬼神も之を避く(15)

 無機質な床を力強く蹴飛ばし、ディールの身体は転がるように進み始めた。前後左右の感覚が吹き飛び、身体は流れるように前へと飛び出るが、そこにディールの意思はあまり介入しない。できないと言った方が正確なのかもしれない。


 身体が前のめりになる。傾いた身体を支えるように足が前に踏み出される。それを軽く繰り返すこと十数回。ディールの身体は自然と戦車のいる方に進んでいた。


 地面に突き立てた木の棒が転がるまま、蹴り飛ばした靴の爪先が向くまま、行き先を頭の中に思い描くでもなく、ただ委ねて足を進めるだけの行動は邪魔な思考を綺麗に取っ払ってくれて、ディールの頭の中は洗濯し立ての下着のように真っ白だった。


 敵が接近する最中に身構えることは当然と言えた。本能的な防衛反応に従って、戦車が拳を構えている。腰を落とした姿勢からは振るわれる予定の拳に乗った殺意すら垣間見えるが、頭の中を空っぽにしたばかりのディールはそこに脅威を感じなかった。感じられなかったとも言える。


 踏み込みは段階的に速度を増していき、戦車の手前、数メートルのところで最高速度を記録した。転がる寸前とも言えた前傾姿勢は止まるところを知らず、鼻先が擦りそうなほどの低さから、潜り込むようにディールは前に突き進んだ。


 戦車が視線を落とし、拳を叩きつける構えを取る。空手家が瓦を割るような姿勢から、握り締められた拳が飛び込んでいくディールを待ち構える。


 準備された処刑道具のように、その先にあるものは身体を叩き潰される未来ばかりだったが、やはり、頭の中を空っぽにしたばかりのディールには、それだけの恐怖や危機感を覚えなかった。覚えられなかったと言った方が正しい。


 戦車が拳の用意を終えても、足元から滑り込むように接近し、ディールは体重を拳へと移動させる。その進路を予測し、到達予定時刻に合わせる形で、戦車は構えた拳に力を注ぎ込めて、まだディールのいない無機質な床に勢い良く拳を叩き落とした。


 音が響き渡る。拳が力任せに振り落とされ、その先にあるものとぶつかる音だ。部屋全体を震わせるほどに響き渡った音を耳にしながら、ディールは勢いの消えるまま、ゆっくりと身体を床につけていた。


 その前で戦車は振り下ろしたばかりの腕を持ち上げて、表情を険しいものに変えていた。自身の腕を見つめ、その様子に歯を食い縛る中、地に伏せたばかりのディールが身を起こし、戦車の足を狙って身体を回転させた。


 ディールの蹴りが無防備だった戦車の足にぶつかって、戦車の身体が揺れる。それを支えようと伸ばされた腕は不格好に折れ曲がり、戦車は力任せに戻そうと一気に力んでいた。


 端的に言って、ディールに振り下ろされた拳はディールを捉えなかった。その寸前、ディールは踏み込む勢いのまま、用意していた拳を構え、そこに現れると分かっていたのか、振り下ろされた戦車の腕を殴り飛ばしていた。


 ちょうど肘関節に当たる部分だ。戦車の振り下ろしたばかりの腕は折れ、ディールは満足そうに笑みを浮かべながら、床に倒れた。

 それから、蹴りへと移行してしばらく、戦車が自身の折れた腕を力任せに戻す姿を目にして、ディールは恐れるどころか、感心する気持ちが強かった。


 確かに合理的である。そう考えながら、自身も腕を折った際にはできるのだろうかと想像し、きっと容易いとすぐに思った。


 要するに力の入れ方と仙気の使い方次第で、身体の方は何とでもなる。それは今も同じことで、ディールは倒れ、死んでいてもおかしくない攻撃を受けながらも、未だ自由に動き回り、戦車を殴っている。

 それと何も変わらない。戦車もやはり同類だ。そう思えば思うほどに、ディールの喜びは増していく。


 戦車の折れ曲がった腕が伸びて、当然のように指先が動き出した。加減を確認するように肘から大きく腕を回し、戦車は満足そうに頷いている。

 元に戻ったとディールが思い、待っていたわけでもないが、再び攻撃に移ろうと身構えた。


 その瞬間、戦車の身体が消え、ディールは目を白黒させた。どこに行ったのかと頭を左右に振りかけた直後、温もりを感じて、気づいた時にはディールの身体が浮いている。


 掴まれた。そう理解した時には遅く、ディールは力任せに身体を叩きつけられていた。そこまで確認のように、戦車はさっき折れた腕を動かし、床に押しつけたディールを見下ろしてくる。


 チカチカと視界が明滅し、ディールの視界の中で戦車が浮かんでは消えを繰り返す。振り抜かれた本気の一撃にディールは繋ぎ止めていた意識を手放しかけながら、戦車を見上げていた。戦車の冷たい目を見つめて、背中を駆け巡るゾクゾクとした高揚感に包まれる。


 そう来なくてはいけない。そうでないと面白くない。そうディールが思う前で、戦車は拳を構え、さっきのリベンジと言わんばかりに力強く振り下ろした。

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