星は遠くで輝いている(11)
それまでの緊張した雰囲気から一転、幸善達は穏やかな雰囲気に包まれていた。さっきまでの緊迫感が何由来なのか、未だに幸善は分かっていなかったが、解消できたのなら問題ないことだったのだろう。
それについてはそう思うことにして、今は目下の問題を片づけるべきだと判断し、幸善は全力で相亀を押さえつけていた。
「いや、待って!?心の準備が!?」
そう叫ぶ相亀は絶賛手のひらの怪我の治療中である。割れたグラスは謝罪した上で仲後に回収してもらい、止血も含めた治療を施そうとしている最中だ。
そこに発生する痛みを怯えて、相亀が必死に抵抗しているように、相亀のことを知らない人が見たら思うかもしれないが、現在の状況はそういうことではない。
そもそも、仙人である相亀が手のひらの治療の痛さに耐えかねて、それで発狂寸前になるほどに取り乱すはずもない。
今の相亀が取り乱している最大の理由は治療を施そうとしている人物だ。救急箱がないかと仲後に訊ねて、誰かが立候補する前に自分が治療を施すと言った人物がいた。
その人物が今、正に相亀の手に触れようとしているのだが、そのことに相亀は全力で抵抗している状態だった。もちろん、顔を真っ赤に染めて。
そこまで言ってしまえば、その人物は絞られるのだが、その絞られた人物の中で一体誰なのかと言うと、意外にもそれは穂村だった。
こういう時に率先して行動しそうな東雲や相亀との付き合いが長い水月ではなく、穂村が誰よりも先に動いて、相亀の治療をしようとしていた。
「ほら、落ちつけ。そこまで動いたら穂村さんが治療できない」
幸善はそう窘めながら、全力で相亀の四肢を押さえつける。ガッチリと両手両足を相亀の身体に絡みつかせて、座っている椅子に縛りつけている状態だ。
この状態で抵抗するには仙気を用いるしかないはずだが、流石の相亀もそこまではしないはずだ。
ここがミミズクで、鈴木がカウンターにいて、外で仙人が見張っている状況も加味すると、そこにはリスクしかない。
「いや、だから!心の準備がね!いるわけよ!?バンジージャンプの前でもそうだろう!?いきなり飛ぶ奴はいないだろう!?」
「飛んだことないから分からない。穂村さん、さあ」
「さらっと流すな!?」
命からがら必死に抗議する相亀だったが、幸善も穂村もそれを聞くつもりはなかった。
手のひらからの出血は一刻を争う――とは言えないものかもしれないが、それを放置してしまうと、至る所に血痕を作ることになる。そうなったら、掃除も洗濯も大変だ。
それを防ぐために、相亀の必死の抗議などなかったことにして、穂村は抵抗のできない相亀の手を掴み、その手にハンカチを巻き始めた。
途端に相亀は顔を林檎のように真っ赤にして、幸善の両手両足の中で石像のように固まった。穂村に掴まれた手はぎこちなく蠢き、穂村はその動きにうまくハンカチを巻くことができないでいる。
「ちょっと相亀君?止まって」
「…………」
「ダメだ、穂村さん。これはもうただの屍だ」
幸善が相亀の身体を拘束したまま、黙祷を捧げる前で、穂村は相亀の手の蠢きを何とか掻い潜り、ハンカチを巻くことに成功していた。
きゅっと相亀の手にハンカチを縛りつけると、そのハンカチが薄らと赤く染まっていく。
「今更だけど、穂村さんのハンカチを使って良かったの?汚れるよ?こいつの血で」
未だ固まったまま動かない相亀を指差しながら、幸善が心配を口に出してみたが、穂村は特に気にする素振りもなく、小さくかぶりを振るだけだった。
「大丈夫」
そう小さく口に出してから、穂村は最後に相亀の手をきゅっと強く握って、さっきまで座っていた水月の隣の席に戻っていった。
幸善がそれを見送り、拘束していた相亀を解放しても、相亀はしばらく真っ赤に全身を染めたまま、動き出そうとしなかった。
一応、可能性として存在しているので、もしそうだった時に嫌だと思って確認していないのだが、相亀の脈は既に止まっている可能性が十分にある。
それを確認するべきかどうか悩んでいたら、久世が楽しそうに相亀の頬をつつき始めた。それに小さく反応しているので、まだ息はあるようだ。
「そういえば、相亀君も水月さんも同じバイトをしているんだよね?」
固まった相亀を全員で観察している最中、思い出したように東雲がそう聞き出した。相亀は固まっているので、質問が耳に入っているかどうかも怪しいところだったが、水月は普通に聞いていたので、相亀の分まで頷いている。
「それなら、何で二人じゃなくて、幸善君が留学に選ばれたんだろうね?」
東雲の何気ない質問に、幸善と水月は返答に困って思わず目を合わせていた。事情を知っている穂村も、どう答えるのだろうかと心配そうに見守ってくる中、幸善と水月が何とか理由を見つけ出そうと頭を働かせる。
しかし、その理由は見つかることがなく、その理由を更に東雲が追及することもなく、話は別の方向に流れることになった。
「え?留学するのかい?」
東雲の声が耳に入ったのだろう。幸善達の会話に割り込んでくるように、遠くからその声が聞こえてきた。
それは鈴木の発したものだった。
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