影が庇護する島に生きる(38)

 影が地面を広がる速度はゆっくりだったが、足を怪我した楓が逃れるには時間が短すぎた。楓が移動するよりも先に影が到達し、その影が楓の足をゆっくりと飲み込み始める。それは底なし沼のようであり、逃れようと楓が藻掻くほどに、楓の身体は影の中に捕らわれている。


 このままだと楓が影の中に完全に飲み込まれると思った瞬間、アシモフが楓を捕らえた影に向かって、引き金を引いていた。弾丸が影にぶつかり、楓の身体を捕らえていた影が飛び散る。


 その隙に有間が駆け寄り、楓を力任せに引っ張って、その場から何とか離れた。楓が飲み込まれずに済んだのは良かったが、問題はこれで判明した影の性質の方だ。


 あの影は触れられると、キッド自身がそうしていたように、影の中に飲み込まれてしまう。キッドは自分で操っているのだから、その中を自由に移動し、自由に飛び出すことができていたが、他の人間が同じように飲み込まれた際にどうなるかは分からない。


 その影がキッドの周辺を覆っている時点で、キッドに接近することは困難であり、キッドに接近することが難しいとなると、キッドを倒すことも必然的にできなくなる。

 一応、アシモフの弾丸が影を一時的に払うことができると分かったが、その一瞬の対応でキッドを倒せるかと聞かれると怪しいところだ。


 しかし、それをやらなければ未来がないことも確かだった。有間や御柱は素手で戦う関係から、影に飲み込まれる危険性が高く、この状況で動くのに適していない。


 仮にキッドを相手にするとしたら、アシモフの援護を受けた冲方か渦良の二択だ。


 そして、そのどちらかに絞れるほど、余裕のある状況ではない。


 それを理解しているからこそ、冲方も渦良も揃って、それぞれの武器を構えていた。この先にキッドの攻撃がどう変化するかは分からない。まだ何とか対応する方法が見えている今の内に手を打たないと、もう取り返しのつかない事態になる可能性が非常に高い。


 アシモフが銃口を向け、それに答えるようにキッドが両手を動かして、周囲の影を広げた。既に森の一部は黒く染まり、キッドの身体の一部となったようだ。


 最悪の場合は岩山に沿って走り抜けることで逃げることも可能だが、その手段を考えるべきかと悩み、少なくとも今の自分は考えるべきではないと冲方は思った。


 二本の刀を握る手に力を込めて、冲方は前方のキッドを睨みつける。薙刀を構えた渦良と呼吸を合わせるために、冲方は渦良の様子も気にしながら、その一瞬を待っていた。

 駆け抜ける瞬間はアシモフが引き金を引いた瞬間だ。その一瞬に生まれた付け込む隙を狙って、冲方と渦良はキッドに攻撃する。


 そこまでのイメージを思い描き、冲方と渦良の呼吸が合わさった直後のことだった。その瞬間を理解していたように、アシモフが引き金を引き、周囲に銃声が響き渡った。


 冲方と渦良は同時に走り出し、キッドは放たれた弾丸を影で打ち消しながら、自分の周囲の状況を固めていく。

 そこにアシモフの弾丸が続いた。二発、三発と放たれた弾が影にぶつかり、キッドが用意しようとした影を悉く打ち消していく。


 その対応にキッドは苛立ったようだが、大きく崩れることはなく、周囲の防御を着実に固めていた。キッドの力は既に最大レベルまで達しているようで、それが圧倒的な余裕さを生み出しているようだ。アシモフがどれだけ銃弾を放っても、キッドの影はそれを超える勢いで膨らみ、自分の周囲を影の世界に塗り替えようとしていた。


 その隙間にアシモフが作った光明を狙って、冲方と渦良は踏み出した。二人は影の隙間を縫うように駆け抜け、キッドとの距離を大きく詰める。


 キッドに向かって冲方と渦良が同時に武器を構える。それを見たキッドが両手で空気を撫でるように動かし、周囲の影を波のように伸ばしてくる。


 その盾を崩すべく、アシモフが弾丸を放っていたのだが、その影は密度が濃いのか、それとも、弾丸の性質にキッドが対応したのか、その影が壊れることはなかった。アシモフは更に引き金を引き、影を集中的に狙っているが、その影は打ち破れない。


 なら、と思った冲方が一本の刀を突き出し、その影にぶつけた。弾丸に対応し、影を払うことができなくなったとは言っても、その弾丸の性質自体は効果を示しているはずだ。

 その予想は的中し、冲方の刀に突き出された影がガラスのように割れる。これでキッドが守っていた手前の壁が崩れた。


 そう思った直後、渦良が薙刀をキッドに向かって突き出していた。キッドの喉元を狙う軌道に、冲方も渦良も薙刀が刺さる光景を想像したが、その光景の中のキッドと違い、現実のキッドは笑みを浮かべていた。


 そこに怪しさを覚えた冲方の視界をキッドの影が横切った。下から上に伸びる形で影が飛び出し、渦良の薙刀はその途中で折れていた。


「なっ…!?」

「そういう形の武器の弱点が柄の部分にあることは知ってるの」


 そう言いながら、キッドが地面を覆った影を蹴り上げるように足を上げた。


 その動きに合わせて、地面の影が波のように大きく動き、渦良を飲み込んだ。渦良は影に飲み込まれながら、大きく背後に押し戻され、そこでアシモフの弾丸によって救出されている。


 その光景を一瞥することもなく、冲方はもう一本の刀を構えて、キッドに振りかぶっていた。渦良の一撃を避けるためにある程度の力は使ったはずだ。アシモフの弾丸の効果もあり、その隙は一人でもつけるに違いない。


 そう思ったが、そんなに簡単なはずもなく、冲方は刀を構えた体勢のまま、両手を影によって固定されていた。刀を振りかぶった無防備な体勢を見て、その状態で固定した張本人が笑い出す。


「そっちも、武器を使う時はもう少し位置と体勢を考えた方がいい。ほら、腹が無防備だ」


 キッドの片手を覆っていた影が伸び、その先端で尖った刃を作り出していた。その刃を突き刺すようにキッドが片手を突き出し、無防備な冲方の腹部に刃が迫る。


 本能的に冲方は自分の死ぬ瞬間を想像し、自分の死を理解した。死ぬことも覚悟し、ただひたすらに何もできなかった自分を悔いた。


 だから、そこからの数秒の出来事を冲方は正しく認識できなかった。理解するまでに時間がかかり、その理解に及んだ理由は声を聞いたからだ。


「待って!」


 英語だが、冲方にも意味の理解できる声がはっきりと耳に聞こえ、前方で動きを止めるキッドの姿も目に入った。


 それから、冲方はゆっくりと視線を下ろし、刀を構える自分の下に立つ小さな身体を見つけた。


「待って!殺さないで!」


 そう叫ぶその子は間違いなく、ウィームだった。

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