鯱は毒と一緒に風を食う(26)
結論から言えば、幸善の危惧した可能性は正解だった。牧場主の身体からは妖気が検出され、その妖気が羊の遺体から採取された妖気と一致した。
つまり、牧場主は人型と接触していないのではなく、人型と接触したという記憶を失っていたのだ。
実際、奇隠の仙人が軽い検査をしてみたところ、牧場主は軽い記憶障害が確認され、数日前のことがうまく思い出せなくなっていた。これも恐らく、人型の用いた毒の影響だろう。
これによって、これまで人型が発見されていなかった理由の一つに説明がついた。
人型は発見されていないわけではなく、発見されたとしても自身の妖術を用いて、目撃者から記憶を消すことで対処していた。
この方法が確立されている以上、人型の目撃情報を見つけ出すことは難しい。
それだけではない。問題は牧場主のように当人の気づかない間に妖気の影響を受けている人物がいるところにもある。
毒の影響で記憶の一部に障害が出るだけならまだいい。人型の強力な妖気を身に受けて、体内に影響を残し続けて、一般人が正常でいられるとは考えづらい。
もしかしたら、奇隠が把握している以上の被害を人型は生み出しているかもしれない。
そう考えたら、これは単純な動物の惨殺事件に留まらない問題だった。
ただ幸善には分からないことが多かった。
人間を敵と考える人型が人間に害を及ぼすことは正常と言える。正常と言ってはならないが、行動原理として理解はできることだ。敵を攻撃することは人間も行うことだ。
だが、人間ではない動物や妖怪を無差別に殺すことに意味があるとは到底思えなかった。
人型の基本方針に動物の生死は関係ない。食料などの人間の日常生活に関わる動物を殺すなら未だしも、あの羊は食用ではなかった。殺害しても人間に被害は出ない。
セバスチャンもそうだ。妖怪は人型にとって敵どころか、味方になり得る存在のはずだ。
実際、妖怪の反乱を恐れ、人型は妖怪とコミュニケーションが取れる幸善を警戒対象にしている。セバスチャンを殺害しても不利益しか生まないだろう。
それに対して、牧場主を殺害しない意味が分からない。毒を用いて記憶を消す暇があるなら、毒を用いて口封じもできたはずだ。
人型の敵は人間である以上、人間を殺害しない道理はない。
人間を殺害できない理由が他にあるのかとも思ったが、聞いたところによると、これまでに人間を殺害した記録はあるそうだ。殺害できない理由はないと考えるべきだろう。
それなのに人間を殺害することなく、人型は動物の殺害を選んだ。妖怪であるセバスチャンも巻き込む形で。
幸善はその事実を考えれば考えるほどに底の見えない沼に嵌まっていく気分だった。
言葉が通じるなら、それが妖怪であっても分かり合えるはずだ。誰でも言葉の理解できる人型なら、それは言うまでもない。
幸善はこれまでそう考え、これからもそう考えるつもりだった。人間と妖怪、延いては人型まで分かり合うことができると幸善は信じて疑わなかった。
それが揺れる出来事を前にして、幸善はC支部内の自室にて、一人で頭を抱えていた。
言葉の通じないピンク達とはある程度、分かり合うことができた。互いの考えを理解し、互いの言葉を読み取ることが次第にできるようになっていた。
それに対して、元から言葉の分かるはずの人型の行動はここまで理解できない。
幸善は奇隠の本部で
あの時から幸善の気持ちに変化はない。今も
だが、それが本当に自分にできるのだろうか、と幸善は不安な気持ちを抱え始めていた。
すぐ近くに現れた人型の行動も読めない。考えていることも分からない。幸善と人型の距離感はそれくらいかもしれない。
これまでに現れた人型だって、幸善はどれくらいの理解を以て、その前に立っていただろうかと考えてみるが、答えは出てこない。
もしかしたら、もっと助けられた相手がいるかもしれないと言われたら、今の幸善には言葉が見つからない。
そんなことも考えたことがなかったのかと、この異国の地を訪れて、幸善は今更ながらに考えた。たった一体の考えの読めない人型が前に現れなければ、二度と考えることはなかったかもしれない。
自分に何ができるのだろうか。自分に何ができたのだろうか。自分は何をするべきなのだろうか。
幸善が一人で自問自答を始め、イギリスに潜む人型のことを考えている最中のことだった。
不意に幸善の部屋の扉がノックされ、幸善は顔を上げた。訪問者のようだ。
誰かと思いながら、幸善は部屋の扉を開いてみる。
「あの……どうも……」
そこにはリングが立っていた。
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