四人目は恋の匂いに走り出す(6)

 パン、と東雲が手を叩いた。店を出た直後のことだ。その音に驚いた幸善達が東雲に目を向けると、東雲は何かを思い出したような顔をしていた。

 何を思い出したのか分からないが、今の流れ的に良くないことだな、と幸善が思っていると、東雲が我妻の方を向く。


「ごめんね、我妻君。私、買い物を頼まれていたのを思い出しちゃった」

「そうなのか?なら、これから一緒に…」

「い、いや!?みんなを付き合わせるわけにはいかないし」

「そうだね。東雲さんには僕がついていくよ」

「何でだよ」


 久世の唐突な発言があまりに意味不明で、幸善は流れるようにツッコんでしまっていた。そのツッコミに誰よりも久世本人が笑っている。


「ほら、我妻君は愛香さんを家まで送ってあげたら?いろいろとアドバイスを貰ったし、そのお礼として、ね?」

「それがお礼になるのか?」

「なるよ。いろいろ物騒だし」

「それなら、東雲も…」

「わ、私は幸善君がいるから。愛香さんと一緒に帰ってあげてよ」

「東雲がそう言うなら」


 東雲の提案を我妻が受けたことで、我妻は愛香を送ることになっていたが、そのことに緊張しそうな愛香の表情は浮かないものだった。それを見た久世が幸善に近づいてきて、小声で言ってくる。


「酷なことをするね」


 その通りだと思った幸善が我妻を止めようとするが、その前に東雲に背中を押され、幸善は我妻と愛香に近づくことができなかった。


「じゃあ、また明日ね」


 東雲が早々にそう言って、我妻と愛香を見送ってしまう。


 この時の愛香は幸善の心配していた通り、複雑な心境になっていた。東雲達三人と別れ、我妻と二人っきりになり、いつもの愛香なら喜んでいたところだが、この時はそういう気持ちでいられなかった。


「今日はありがとう」


 我妻が歩きながら、そう言ってくる。その言葉に愛香はかぶりを振る。


「私はお礼を言われるようなことはしていないから」

「だけど、愛香がいたから、どういう風に選ぶのか分かった。これで相亀との勝負も勝てるかもしれない」


 そう意気込む我妻の姿を見ながら、愛香はスポーツ用品店でのことを思い出す。不意に気づいてしまったことを考えると、いつもはただ輝いて見えたその姿も、今は少し遠くにいるように思えてくる。


「どうして…」


 不意に呟いてから、自分が思っていることを口に出そうとしていることに気づいた。そこで言葉を止めようと思うが、我妻は既に言葉を聞いており、不思議そうな顔で見てきている。聞こうとした言葉は一度口から出してしまった以上、なかったことにはできない。


「どうして、そのスパイクにしたの?」

「どうして…?」


 そう聞かれた我妻が買ったばかりのスパイクを眺めながら、とても優しげに笑っていた。その表情は今まで愛香が見たことのない表情で、それが既に答えだった。


「もしかして、我妻君って…」


 愛香は大きく深呼吸をする。


「東雲さんのことが好きなの?」


 その一言に我妻は大きく目を見開いていた。それは聞くまでもないことだ。今の反応に至るまでの多くの状況がその事実を確かなものとして証明している。それくらいのことは愛香も分かっていた。

 しかし、どうしても聞かずにいられなかった。


 我妻が驚いた表情を真剣なものに変えていく。


「好きだよ」


 その一言が愛香の心を潰すように、重く伸しかかってきた。ああ、やっぱり、と心では思おうとしているのだが、それ以上のショックがどうしても勝ってしまい、簡単には処理できない。


「けど…」


 我妻が何かを言おうとしていたが、その言葉は愛香の耳には届いていなかった。我妻の声が聞こえた瞬間、反射的に口を開いてしまう。


「そうなんだね…私、応援するから。友達として我妻君が東雲さんとうまく行くように、陸上と同じくらい応援するから…」

「それはありがとう、なのか…?」


 我妻のお礼の言葉に愛香の胸がズキンと痛んだ。今にも溢れそうな涙を必死に押さえながら、愛香は顔を上げる。


「あの、私、ここまでで大丈夫だから。ありがとう。その…また、明日ね」


 それだけ一方的に言い残し、愛香はその場から離れるように走り出す。振り返ることはしなかった。ただひたすらに前を向き、我妻の見えないところに行くために、足を動かし続けていた。

 そうしないと、もう前が見えなくなりそうだった。

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