四人目は恋の匂いに走り出す(7)
およそ一年前のことだった。既に入学していた一つ上の姉や、その上の姉達が通っていたこともあって、愛香の名前は入学前から有名になっていた。特に年上の男子生徒からの期待は強く、そのことで愛香は入学早々、多数の女子生徒から反感を買ってしまっていた。
一つ上の姉である愛香三景は落ちついた性格ながらも、自分の思ったことははっきりと言う気の強い部分があったため、敵を作りやすかった。その人達が入学してくる愛香三景の妹の存在を知り、三景に対する恨みを果たそうと思ったことも、その反感には含まれていたようだ。
入学してからしばらく、愛香は完全に孤立していた。愛香が入学前から期待されていた通り、人目を引く見た目をしていたこともあって、男子生徒が愛香の周りに集まることが多かったので、露骨な苦痛を与えてくるようなイジメこそなかったが、この時点で愛香と会話してくれる女子生徒は一人もいなかった。
元々、愛香は人付き合いが得意ではなかったため、少し寂しいとは思っていたが、それでも仕方がないとそのことは諦めていた。
しかし、やがて、愛香の反応があまりに悪かったためか、男子生徒が愛香の周囲から離れると、少しずつ愛香の日常で目に見える異変が起きるようになっていた。最初は愛香自身で自分のミスかと思ってしまうような些細なことだった。消しゴムがなくなっているとか、その程度のレベルだ。それくらいは何でもなかった。
しかし、それはただの始まりだった。ある時には愛香の下駄箱から靴がなくなり、愛香は上靴で帰らなければいけなくなった。ある時は愛香の教科書が全て破かれ、机の中に詰め込まれていた。ある時には愛香の弁当が泥水で一杯にされていた。ある時には愛香の連絡先が学校のトイレに掲示され、愛香のスマートフォンが鳴り止まなくなった。
それ以外にも足を引っかけられたり、水をかけられたりしたが、それくらいのことは軽く思えるようなことが約一ヶ月もの間、愛香の周りで続いていた。
もう学校に行くことをやめようかと愛香が考えた時、愛香は数人の女子生徒に呼び出された。呼び出された理由は良く分からなかった。ただ分かったことは、呼び出した女子生徒の中心にいた、愛香からすると先輩に当たる少女が最近、恋人と別れたようだった。その理由のところに三景が関わっていたらしい。
これは腹いせなのかもしれない。愛香はそう思った。それが理由かは分からないが、それなら、好きにさせようと愛香は諦めていた。
愛香の鞄が奪われ、投げ捨てられた。物を持っていることが気に食わなかったらしい。どうせ、中身はぐちゃぐちゃだ。投げられても構わない。実際、投げ捨てられた鞄からは落書きされ、その落書きすら破かれたノートが飛び出している。
今から自分は何をされるのだろうか。痛いことだろうか。もしそうなら、少し嫌だな、と愛香は思っていた。
一瞬、「何するの?」と自分がそう聞いたのかと思った。思っていたことを口に出したのかと思った。
しかし、そうではなかったようで、自分を呼び出した女子生徒達が面倒そうに目を向けていた。その視線の先を愛香も見ると、もう一度、聞こえた気がした声がする。
「何をしてるの?」
「君には関係のないことだから。ほら、一年は消えた」
そう言って、中心に立っていた彼氏と別れたばかりの少女が言うが、そこに立っていた少年は気にしている様子がなかった。投げ捨てられた鞄に目を向け、飛び出したノートを見ている。
「何?イジメ?」
その少年が愛香に聞いてきていたが、愛香はすぐに答えられなかった。
「イジメじゃないって」
愛香の目の前で少女がそう呟いた瞬間、少年はその少女を睨みつけていた。
「先輩。悪いけど、あんたには聞いてない。俺が聞いているのはお前の方だ」
そう言って、少年が指を差してきた。その迫力に気圧された愛香はつい少年の問いにうなずいていた。
「そうか。分かった」
そう言って、少年は愛香の手を引いて、その場を離れ始めた。その行動に愛香を呼び出した女子生徒達が抗議しようとするが、少年はそれを一睨みで黙らせていた。
「ちょ…ちょっと待って…!?」
愛香は少年の手を振りほどいていた。
こんなことをされては困る。こんなことをされたら、これまで以上の目に遭うかもしれない。その思いから少年に抗議の言葉を向けようとした。
「大丈夫だ」
愛香が言葉を発するよりも先に少年がそう呟いていた。
「大丈夫だ。俺が何とかするから」
少年のその自信がどこから来るのか分からなかったが、その言葉はそれまで張りつめていた愛香の心を、奇妙なほどに落ちつかせてくれていた。
その後、少年が何をしたのかは分からなかったが、それから、愛香を襲っていた露骨なイジメはなくなっていた。もちろん、それで誰かと話せるようになったわけではないが、ただその時の少年のことが愛香は気になって仕方がなかった。
それから、しばらくして、愛香はその少年を放課後のグラウンドで見つけることになる。
それが愛香にとって我妻との初めての思い出だった。そのことを思い出しながら、愛香は走った先にあった公園に入る。子供達の下校時刻を過ぎていることもあり、公園の中には他に人がいない。
その時から我妻のことが気になり、我妻に対する好意を自覚した愛香は、姉である愛香
「好きだよ」
我妻が口に出した言葉を思い出し、愛香はついに我慢ができなかった。気づいた時には目の前が歪み、愛香はポロポロと地面に涙を落としていた。
壊れかけていた愛香の日常を、愛香の心を、確かに救ってくれた我妻のことが堪らなく好きで、それが愛香にとっての日々の支えだった。何か嫌なことがあっても、我妻と逢えるなら、多少のことはどうでも良かった。誰も自分と話してくれなくても、我妻が話してくれるのなら、それだけで愛香は幸せだった。
けど、我妻が見ていたのは自分のことではなかった。そう思ったら、これまで感じたことがないくらいの寂しさを覚えていた。
本当に自分がひとりぼっちな気がして、愛香は公園の中で一人、声を殺して泣き続けていた。
「そんなところでどうかしたのかな?」
不意に声が聞こえ、愛香は顔を上げていた。そこには見知らぬ男が立っており、泣いている愛香を驚いた顔で見てきている。
「どうしたの?大丈夫?」
「大丈…夫…です……」
愛香は涙を拭いながら、何度もかぶりを振る。それでも、泣いている事実が変わらない以上は、心配して当たり前だろう。男は愛香に近づき、何か小さな袋のようなものを取り出していた。
「何があったのか分からないが、これを嗅ぐと気持ちが落ちつくよ」
「あ…りがとうございます…?」
嗅ぐ。御香か何かだろうかと思いながら、愛香が小さな袋を受け取ると、その瞬間、独特な匂いが鼻に入ってきていた。その匂いは不思議と愛香の胸のざわめきを静めてくれている。
「あ、本当だ…落ちつく…」
そう言いながら、愛香は鼻に袋を近づけ、大きく深呼吸をするように匂いを嗅ぐ。気持ちはだんだんと落ちつていき、やがて、ゆっくりとした睡魔のようなものに襲われていた。
「あ、れ…?」
ふと気づいた時には、愛香は地面に倒れ込んでいた。その姿を見た男が満足そうに微笑む。
「まあ、あまりにも落ちつくから、意識が保てなくなるんだけどな」
そう言いながら、男は愛香が完全に意識を失ったことを確認する。愛香が握っていた小袋を回収し、愛香の口元にそっと手を近づけた。
「あと少しかな」
男が呟いた直後、意識を失った愛香が立ち上がっていた。その虚ろな目に男の笑みが映っていた。
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